starstruck

 さしあたり「星の匂いのこびりついた歌」とでも呼んでおく。


 短歌形式にとって「秀歌」と「星の匂いのこびりついた歌」は、道徳と倫理の違いに似ている。それはまた、神話的暴力と神的暴力の違いに似ている。道徳はかかれ、また言われたものであり、誰でも参照できるものだ。倫理は違う。倫理はその場でひとりひとりが独断的に誕生させるものだ。他人の倫理に倣うとき、それはすでに道徳化されてあるということだ。条項化され内面化された道徳をあるひとりの人間の無謀で瞬間的な倫理が断ち切るように、「星の匂いのこびりついた歌」は「秀歌」という多数の勝者の法の措定圏域に一個の醒めない穴をまくりあげてみせる。QOLとしての「秀歌」はその評価基準の相互参照に裏打ちされたグラデーションの豊かさによってひとをあたため、活気づけ、驚かせ、あるいは慰め、失望させ、激昂させ、端的に無視させる。それがなくては短歌が立ちいかれないだろうことは事実としても・・・「星の匂いのこびりついた歌」は、そうした「秀歌」の成立条件と、現にそのようにしてあるという様態の真ん中から一個の醒めない穴をまくりあげてみせる。
 「われわれが望むのは、われわれを星々に結びつけている絆が、われわれを大地に繋ぎとめる絆にとって、致命的なものとなることである」(ジョー・ブスケ)。しかしまさにここで、「星の匂いのこびりついた歌」は「秀歌」の大地性に反して登場した自らの革命罪を切なくも償うかに私には見える。「星の匂いのこびりついた歌」を「秀歌」の法に反して慕い、愛し、模倣をこいねがう「信者」たちの胸をしめつける出現とその営為によって・・・・。このようにして「星の匂いのこびりついた歌」は「秀歌」同様、一種の「いい歌」とみなされ、以後同じカテゴリーのもとにあるかのように語られていく。しかしこのときすでにそのカテゴリー、その短歌における「いい歌」の基準は以前措定され運用されていたものから致命的な変更をこうむっている。なにかが通用しなくなり、なにかが新たに始動された・・ということ。「星の匂いのこびりついた歌」の登場によって短歌のなにが一変してしまったのかあとからたしかめることはかぎりなく困難になることを今、誰もが気づいている。なにかは変わったのに、なにが変わったのかは判らない──これはまるで良性の不可能性? いや、「アルデバランの青くきらめく下にして」誰が短歌に約束のように向かったのかを気兼ねする、とても使徒ならざる唾の泡の破片からの思いとして。

vtuberお気に入りの配信場面選とか気が向いたら読ませてほしいですね、気負わず、気楽に挙げてもらって・・・。本とかゲームの今年ふれた作品でベスト選ぶやつみたいな感じで。今年のでなくても。・・・いつの瞬間からのでも。

過去の記事でそれなりに多くかき、引用してきた配信は措くにしても。くやしいけれど、でろーんはそれを考えたときあらためて筆頭のようにでてくる。私でさえ、2つ3つ、たちどころに鋭い語りを見せる場面が思いだせる。モイラ様から太古の記憶を引きだそうとしての、「そんときはまだ、世界って寒かった?」(https://youtu.be/YKYLhoAJdtk?t=3342)にしんとした季節の風が立ちこめたことは忘れられないし、えるに対して「笑わないよ?人の失敗を。エルフの学校ではそうやって習ったの?」(「【ちひろ視点】もちがえるでマイクラ【途中抜け参加あり】」)と諭す声調と方向性にははっとさせられたものだ。
葛葉の「【PUBG】初めてのパブジカスタム【#くずなま】」のように全体を通して選出するほかない傑作もある。チャンチョのASMR配信、海月ねうのvtuberをまだよく知らなくて学校の友達と話していたころの回想・・・「夢にえがいてないような夢が、かなったりするじゃない?」(電脳少女シロ、「【花京院ちえりx電脳少女シロxばあちゃる】おひろめ生放送」)は、文字に起こすとべつのものを発してみえるだろう。めめめの配信にしても、ゲームの説明をしているうちに顔が勝手にニッコリしてしまう事態(https://youtu.be/_BbATRL_WJI?t=4287)と、配信終了直前に言われた「爪と宝石」の夢想(https://youtu.be/6KtGWMCdUW8?t=3578)ではどちらを選ぶか永遠に迷い続けていられそうだ。その間にもアキくんは卵の真似をして「パキュ・・・ピチャ・・・」と果敢なトライを見せ、ピノ様はパックンフラワーを育てながら「いちごミルクあたりを飲ませたらピンク色にならないかなあ・・・」という驚くべき洞察をはっきりと伝えてくれるだろう。
あれどこで言ってたんだっけなあ・・・と見失った配信もある。それを見つけなおすのには時間がかかりそうだ。ここで一期一会という言葉も顔を洗ってでなおしてくるだろう。そうだ、金剛いろはが《がんばれとは言わないよ、だって君はもうがんばってるから》というような台詞に困らせられたという、あれはどこでの配信だったろう。そんな台詞を「.hack」のアニメかなにかで聞いて以来、誰かを励まそうとするたびその台詞が思いだされて「いろは、なにも言えなくなっちゃうんですよねー・・・」と溜め息したこと。・・・今日もひそかにbotにメモ帳に配信者たちの言葉をかきうつしていきながら、配信場面のアンソロジーはお蔵入りというあのたいそう甘い夢に実ってゆく。

離脱しすぎてたんですがゲームも、要るので。
で久しぶりに進捗見に行ったら「Virgo Vs The Zodiac」(https://store.steampowered.com/app/920320/Virgo_Vs_The_Zodiac/)は日本語化予定になってました。やったあ。これはすてきゲームになる筈。「GLITCHED」(https://enhousestudios.itch.io/glitched)も一応今年リリース予定に。「Blue Omen Operation」も無事でてほしいなあというところです。
・・「フシギセブン」もいつでも待ってます。

  • The Gardens Between(The Voxel Agents)

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パズルをつくれるっていいなあ・・と思う。なんかどこまで自分の発想で打開できたかあやしくなってくる(むつかしい面はほんとにうんうんうなるんですけど)、なんとなく解けていけるパズルゲーム。林檎の皮むきのように風景を右に左に。急かされないでまどろんで進められるのが感触として「Fez」を思わせます。
チャプターごとにクリアすると見られる記憶の一場面に「星座」を点と線で表現することにした人間の謎がせり上がってゆきます。忘れられない光景を「暗唱」するために役立つ素材とも思えないのに。星座が点と線でかきこまれている、少なくともそう見えてきた、ということはほんとうにはどういうことなんでしょう。

  • Heartbound(Pirate Software)

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www.gamespark.jp

去年DEMOを落とすだけ落として積んでました。いつの間にかアーリーアクセス版が販売決定してたのであわててプレイ・・・。どうぶつの森チャプターに来たとこまで。TOWER以降のレベルデザインはまだ工事中の様子。
おはなしはそんなに奇矯でなく。大切な愛犬Baronのゆくえを追って主人公Loreが異世界を歩き回ります。わ、おしゃべりする犬だー!!!というのでひとしきりきゃっきゃっと。Binderのお部屋でそこらじゅうに積み上げられてる本の塔を調べると、その大きさによって本の塔の赤ちゃんとか本の塔のママとか呼ばれるあたりすき。セーブポイントで毎回メッセージ変わるのもいい。歩き回るゲームだからどこでもセーブできたらなあ・・とは思うんですけどね。あと私、ボタン配置おぼえられないから、音ゲー系のボタン押しアクションをバトルで求められてけっこう死にました(バトルの回数少なくて助かった・・)。
感想ちらほら拾ってみて、ひとに紹介するとなると「Undertale」、あるいは「OneShot」だとかの名前がどうしても挙がってしまうのかなとは思う。ただ、実際にプレイすると印象かなり違うのは伝わると思いますので、Loreの両親の不和がストーリーに食いこんできたり(それが成功してるかは措いても)。あんまり第二の○○!とか次の××!みたいに急かして期待づけられちゃうとこの作品につらいような気がしますね。

言い訳要らずの反故──前川佐美雄『大和』

ナガノはちょっと歌ってはやめ、またこわごわ歌い直すことをくりかえす。ひとつの曲をさいごまで歌いおおせることができない。
「歌えるようになるといいね」
「うん」
雪舟えま「とても寒い星で」、『凍土二人行黒スープ付き』


 「着いたあとでそこが目的地だったと初めて判る」という「抒情詩」をいつもつかみそこねます。私はまだよく判らないです、そういうのの機微が。感受性なんてある程度までは学習の賜物、という考え方は正しい&とっても優しいと私も思うから、じゃあそうした方向の感受性をあんまり勉強しなかった、したくなかった、だけかも知れない。言い方のせいかも知れない、ほんとうは底のほうで判ってることかも知れない。でもやっぱり自分の身についてるとはどうしたって言えない。


 絶対の一首が成立するまでの惜しいバリアントとして受け取られる歌たち、というのがあって、それは振り返ってみれば、という再発見の照射を余儀なく浴びている。とくに歌集にまとめられてしまえば、「絶対の一首と、そこへ至るための何首もの習作」という風に目的論化されて読まれることは避けにくい。その絶対の一首が実際にかかれなければ、互いに関係づけられたり、ひとつの遠い目的地のために倒れた系譜だと思われることもなかっただろう、という気にさせられる。でもどこまではっきりそうしたことを主張できるだろう。

春霞いや濃くなりて何も見えねばここに家畜をあがめむとする/前川佐美雄「春」、昭和12年


真昼間の霞いよいよ濃くなりてむせぶがごとく独なりけり ※独(ひとり)


逝く春の霞ぞふかき真昼間は屋根にのぼれども眼の見えはせぬ/「晩春小居」、昭和12年 ※眼(め)


昼過ぎの霞いや濃くへだてられおもかげも見えぬいらだたしさを


祖先らを遠くしぬぶは四方山もかすみて見えぬ大和と思ひ/「霞」、昭和14年 ※祖先(みおや)、四方山(よもやま)


春霞いやふかき昼をこもらへば土間のあたりにうづくまれこそ

 前川佐美雄の『大和』(『現代短歌全集 第八巻』、筑摩書房、1980年)から。気だるい幸福感にも、鬱陶しい嫌悪にも、どちらにもふれうる「霞」の濫費。似たような歌いだし、同じような発想、というよりはるかに、字面や語句選びの水準で「キャラ」が被りすぎていることをまったく意に介していない。そうでなかったら歌集にこんな風に入れられない。
 穂村弘による『植物祭』評を想起しながら言えば、これらの歌たちだって「ホームランを狙う大きな空振り」なのかも知れない。とくにこれらの歌のまるで延長線上に成立したような絶対の一首……この文の段落の直後に引くことになるあの一首……が『大和』に輝いてあることを知っている者にはなおさらそうだろう。けれど、私はもっと端的な野蛮さを感じる。狙うならばホームランをという『植物祭』での種々さまざまな「ファールチップ」とは違う、そうした気負いのゆえではないどこか空ろに繰り返された「空振り」だから、というせいもある。そしてそれ以上に、単に空振りのしかたが野蛮なのではなく、空振りした歌を歌集からは落とすという配慮なんて最初からなさそうな作者の手つきによってこれらの歌は真に野蛮なのだと思う。歌人の多くが「こんな推敲は家で済ませておくべき」と思うだろうことを、紙面の上で繰り返し念じることを悪びれないような。読み手に愛想を尽かされることをまったく恐れないということをエネルギーに歌を繰りだすにしても、今の歌人だったらこういうしかたでは歌集をまとめないと思ってしまう。歌を並べること、歌をそのまま入れることに対する暴力性のそもそもの質の違いを感じる。この点で前川佐美雄の暴力性は、「たまゆらもその眼とづるな爛爛とかがやくその眼とはにとづるな」「こなごなに砕けはてしがひとしきりあやに光れば手もつけられぬ」というような歌の内実の激しさに依る以上に、歌をかき、並べ、発表してみせるというそもそもの行動の域において私をびっくりさせる。


春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ/前川佐美雄「大和」、昭和14年


 先に引いた6首をどう組み合わせてもけしてこうはなりえない、というまったく新しい限界としてこの歌は突然ある。そしてこの歌の登場によって、先に引いた空ろな6首がプロトタイプかなにかのように統べられた地点に私もいてしまう。あの6首とこの歌は断じて無関係だと言うことも、ひそかな交流があると言うことも、同じだけ意味を戦わせられる地点に。制作年月日の問題も複雑だ。というのは、歌集の後書きを信じるなら、この絶対の一首を連作「大和」において成立させたあとで、なおも昭和14年の「霞」(先に引いた6首中、最後の2首)を前川佐美雄はつくっているからだ。容易にほどきえない恐怖の瘤そのものとしてある「なにも見えねば」が繋ぐ結句の「大和と思へ」というほとんど言語道断の命法に立ち会った者が、あろうことか、早々と次の連作において「大和と思ひ」という結句をゆるしてしまう。それを単に歌人の無造作さに解消していいのか、どうか……。


 塚本邦雄の「馬を洗はば」という絶対の一首についてなにか語ろうとするひとが、その一首へ至るための苦心を残す習作、バリアントとしてかかれた3首──それは「沈鬱皇帝」という連作に収録され、今も『歌人』で読めるけれど──にふれることはほぼない。前川佐美雄の「なにも見えねば」もそうだと思う。そうだと思うけれど、そうならざるをえないのはどうしてだろう。どうしてもなにも、しょせん習作は習作です、質の違いは歴然と判ります、なにもかも別物です、だろうか。どうしても、その一首・あの一首と、「その化・あの化」された遠い一首への無言の喝采なしにはすでに立ちいかれない短歌の感性史のあとに、自分が立たされているのを感じる。
 作者がこれは習作ですと言えば納得できるだろうか。だってこれがずばぬけてますもの、とどこまで自分がこれまで不可避にこうむってきた鑑賞史、無意識に内面化してきたときめき学を参照せずに言えるだろうか。私も、「馬を洗はば」や「なにも見えねば」の前では、ほかの倒れていった類似の歌たちがすべて予行練習でしかなく見える。決定的な例の一首のありかたを最初から目指して、それらの歌たちがかかれたように思えてしまう(言葉という主体の側に徹底的に立って思考する者にはここでべつの言い分があるだろう)。それは認めた上で……。「名歌であること」と「名歌にすること」との気が遠くなるほどの長い緊張関係、いわば歌における本質主義構築主義の共同制作下で、あの一首・その一首という絶対の基準なしに、そういった倒れた歌たちをそれ単体で感じたりさわったりしにいくのがどんどんむつかしくなる。


同じような句をつくって何がいけないのか。もっといえば、まったく同じ句を何度もつくることの何がいけないのか/外山一機「忘却についての私的ノート」


 それはまた読者を作品につきあわせる権利の話になるのかも知れない。ひとつの歌をいつもさいごまで歌いおおせられずにいる悩みと、ひとつの歌をさいごまで歌いおおせてしまったあと、ほんとうに始まる悩みについて。

1971、Portrait in Negation──近藤和中『帰ってきたエルンスト』

 舌打ちは自分が傷つくからやらない、とある配信者が言っていた。
 ほんとうにそうだと思う。


桜を湯がく できないなんて/暮田真名「川柳メイキング04」


もうこんな・は嫌 又三郎ざあざあやみを鳴らしてくれる/とみいえひろこ「うろ」


水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている/嵯峨直樹『みずからの火』


 頷けない歌集、すきでない歌集とはべつに「悲惨な歌集」と言わざるをえない本はある。『帰ってきたエルンスト』(近藤和中、ニトリア書房、1971年)は私にその意味でとっておきだ。
 悲惨な、というのは、私がその悲惨さと無縁ではいられないと思うから。この歌の責務をお前がとれ、と言われているから。この歌集はきっと私に脅すでもなく差し向けられた負債だから。この歌群の「死ねないほどの大怪我」はきっと、私が「軽い気持ち」で「輸血したい血」をいつでもせびりに来る筈だから。

岩場の崩れゆくと環状指数による誤差と 理由を辿り難き ancient-cross


SWAY 皮膚と樹木の交叉せる夏のおわりの烙印からの


それからのむなしさの綾織の糸のきらめける海のうねる日


砂けむり雲へ噴きあげる胸隔の平均的な夜の感情

 「ひとつの文章の最大の無意識がそれを読む読者であるなら」(富島美子「幻惑のインテリア」)、そうであるならすばらしいと思う。しかし今は私はこれらの歌にとっての「寄り添う無意識」ではなく、「吐き気がする超自我」として振る舞う。そのほうが自分自身にはねかえってくる。
 近藤和中の歌にとっての吐き気がする超自我として私は、上に引いた4首は「いい歌」ではないと決めつけておく。しかも集中ではこの4首がマシなほうだ、と言いたいがために……。まぐれ当たりだろうがこれらの歌は結局、音によって救われているからだ(4首目の下句のような言葉を放埓してるうちに事故で生まれた字の並びに芽生えた気持ちをもっと愛せばよかったのに、そして2首目のような「短歌という書かれたビジュアル、構造とそのプロポーション」への嗅覚をもっと大事にすればよかったのに……! 私は自分のことみたく悔しい)。それでわざわざ引いた訳もある。こうした歌は自分で自分をなんとか救いかけている。
 でも歌集の大半の瞬間は私にどうしたって「悲惨」に映る。もう超自我もクソもない。この本の出版が1971年ということを思いだしておこうか? 五句の間の領域侵犯をあまり危機感もなさげに「なんとなく」で乗り移っていくかつての「新短歌」系の口語自由律運動のリズム面における負傷と、「密輸」という暗い喜びも、最良の韻きのために音を斡旋する思慮もなしに、海外の固有名詞や人名を歌作に運ぼうと急いだモダニズム短歌の語法における負傷とを、相対化も批評もなく、また罠を罠だとも思わないまま、1971年の時点でいっぺんに二重の負傷=負債として熱に浮かされたように生きるということが端的にどう映るかは次のような歌を見ればおおむね察せられる。

ホレス・シルヴァー ピアノ弾け C14細胞異常分割 抗原削除 ※「14」は上つきの小文字


波動  意識の分化の再分裂 頭上に亜種のオブジェ・スクラム


弱イオン化した精子の痕跡デスマスクに吊られ献身するジュラ


黄のバラの花弁のなかのキャンバスの未完の裸婦の胃の中のピアノ


磁核 位置を変えつつ クレーの 卵形拡大し〈アルハムブラ〉弾き終る


冷凍時計と矩形のコートその他の放心平均台上で踊るカラビナ


ベルナールの妻縊死ののち 循環一元論 文字刻み 数式をたて

 先に比喩として告げておくならば、研究室(ラボ)と美術室(アート)の飽くなき往還という「気分」は、この歌集の大きなウェイトを占めてはいる。いわばキャンバスのすぐそばに顕微鏡がある……という部屋の「時代精神」が歌集を救っているようにはとても見えないまでも。
 この名詞の散らかしを私はほとんど切ないと思う。自分の眼を心を輝かすお気に入りの単語ひとつあれば歌はできる……ふたつ詰めこめばもっときらきら。「歌のために単語を捨てるなんて馬鹿だ」「嫌だ、捨てられない、見逃してくれ、この単語は絶対に持っていく」。そして、そんな風に案じてみることがこの歌集のなにをも救う訳ではないことも私は知っている。そうだね、字義通りに:「つきあいきれない」。
 ここで加藤克巳はどうなのかと問われるだろう。時期的にも『球体』『心庭晩夏』はおそらく近藤和中の歌作に身近な影響源としてあっただろう。ただし加藤克巳はその貪欲さによって短歌の定型と独自に渡り合ってみせることができた。「ふりつもる心の雪のあかときの青のまぼろし若き夢さむ」「あかときの雪の中にて 石 割 れ た」「不気味な夜の みえない空の断絶音 アメリカザリガニいま橋の上いそぐ」という複数のタイプのリズム考を、加藤克巳はともかく一冊のうちに一挙に提示してみせることができた。あるいは口語自由律の展開のうちに一個のトラウマを残していった児山敬一は、「夕日 雑草も張るみどり、気をつけて とかくいたましい花のしろ。」と歌うことで、その「気をつけて」というフレーズひとつで近代短歌の育んできた秀歌性という基準と渡り合うことができた。加藤克巳の貪欲さや、児山敬一のフレーズという切迫した祈りの側へ、近藤和中の眼が泳ぐことはない。あまりに近藤和中は名詞をコレクションすることに眼を奪われてしまっているため、また、あまりに単語の救助にいかれてしまっているため……。


 結社「個性」会員の第一歌集ということで加藤克巳が序文で筆を執っている。そこにも悲惨さがある。「帰ってきたエルンスト」という歌集名はどうも加藤克巳が選んでつけたものらしい。それはべつにいい。しかし加藤克巳は「帰ってきたエルンスト」という題がいかに著者にふさわしいと思ったかを頼んでもいないのに説明しようとして、エルンスト語り、ブルトン語り、超現実主義語り──しかもただの怠惰な丸写し──でページの大半を楽々と埋めてしまう。これから新たに出発しようという歌人はこうして結社の代表者のエッセイ、挨拶文の、たかだか「だし」にされていく。
 加藤克巳の文はあんまりだなってだけ、でもそれをきっぱりとはねつけるだけの一首をこの歌集がついに持てないでいることも事実に思えてしまう。そのほうが悲惨だ。歌集をだすことって、歌集をだすなんてことはさ、この歌人にも大のつく冒険だった筈だよ……?? …………???

白日のギターが告げるふかき眼をいまも信じているはつかれたる蝶

 現代短歌を読みはじめたばかりの……私が勝手にひそかに期待をかけていたひとがずっと昔に「いい歌か、だめな歌か、短歌は読めばすぐわかるので良い。」と日記でかいていたのを思いだす。でもそれは連作という単位、歌集という単位、歌人という単位を忘れて初めて言えることだな、と私は思った。
 実際、上に引いたこの歌は「いい歌」か? 下句の接続に見すごせない傷を負っているのはたしかだけれど、私はこの歌をそれなりに「いい歌」の側に思いたい。するとたちまち、ほかの歌がうるさく邪魔をする。この歌が騒音だらけの本から避難させるに足るだけの歌だったのか、あやしくなっていく(汚染、汚染、……)。「いい歌」を「いい歌になりかけている歌」「偽装されたいい歌」「大してよくもない歌」に曖昧に引きずりこもうとする磁場に鬱陶しくも翻弄される経験を、「価値観のゆさぶり」だとか「秀歌性の問い直し」と言って肯定することを否む気はないけれど、そのためにだってせめて、核になるような絶対の一首が私はほしい。そうでなくては。


 歌集には中村蕙子と共作された連作「鳥・変形・バラード〈合作〉」がある。試みという訳だ。ただ、悪癖が抑制された分、平坦さが強調されてなにか言いたくなるほどよくもない。私はもうがんばって引こうとは思わない(引くべき者はべつにいる)。


 本の最後は「Falling Space」、おそらく散文詩を意識してかかれたテキストかと思われる。この詩もべつに歌集を救わない(「詩」で「歌集」が救われたら、それこそ悲惨ではないだろうか)。「黒田喜夫のかたわらをとおりすぎ/『もう一度言葉を信じない』/と書いたかれをうらやみつつ/きのうも三桁のゼロを意識していた」、黒田喜夫を通過したという歌人が肝心の歌において反復するものの質、に複雑な思いは抱くとしても。

が、活字の汚れっぽさがあわれでならない。

 この一節は歌集を救わない。作品よりも作品が印刷される紙面の美観を気にすることの、見てくれへの眼をそむけたくなるような愛着のこもったこの一行はとりわけ、救わない。


古いニュースか何かの映像を見ていた
白黒の映像をアナウンサーの声が解説している
アナウンサーの発声について、昔っぽい喋りだな、と思ったが
その昔っぽさはどこからきているのかということを考えてた
panpanya「気配」『蟹に誘われて』


藤という燃え方が残されている/八上桐子『hibi』


 第一歌集のこうした悲惨のあとにどんな軌跡を選びとっていったのか私さえ気に病むとき、近藤和中の第二歌集はいない。それは責められない。近藤和中だけがそうであった訳でもない。誰もが踏む罠を人一倍踏み抜き切っていけばそれも栄光のひとつに数え上げられただろうにせよ(「百年後も駄歌としてみんなに語り継がれる歌」)、『帰ってきたエルンスト』はそのような凄みかたをしてみせることすらない。
 読まなくていいよ。ほんとうに。読むべきはもっとある(でしょ?)。ひとにはそう言う。私は忘れない。ここにある言葉の負債は私の負債だから。


秋は深くなりました
星と星とのあいだには
もう栄光の差なんてありません
鮎川信夫「秋の祈り」


 嘘をつかないで、
 と、この「秋の祈り」に詰め寄ったりはしない。


なぜだろう 幸せだと思う度に 空はだんだん尖っていくの真祐、「らじおぞんで


「海のむこうに幸福があるかもしれないけど ここにみつけられないで海のむこうにみつけられるとは思えない」清原なつの「飛鳥昔語り」


 その余光に。