ある時期までは「疲れた」と自分が口にしてしまうことさえ嫌で、いわば「疲れた」を懸命に抑圧していた(抑圧の定義上、意識的に行えるならばそれはもう抑圧とは呼べないではないか、というのはたしかに)。だってくやしいじゃないか、疲れたとか言うのは。もちろん善きひとたちは疲れたなら疲れたと気兼ねせずこぼせる状況の実現をこれからも援護するに違いないし、理不尽な窮乏が少しでも減るように私も心からそうであって欲しいと思いさえするけれど、そうしたこととは関係ない。だって、くやしいじゃないか。私の死ぬほど負けず嫌いな部分のcensoredが……。そしてある時期以降、私の抑圧対象は「疲れた」から「死にたい」にスイッチした。「疲れた」と言い、かくことを、むつかしくともときどきは許容することで、新たな抑圧対象の鼻先に靴の裏のにおいをかがせてやるべく、そうしている。

皆殺しのサーカスその行数でそのあとすぐにそれとも頑張っちゃう?
(瀬戸夏子「生まれかわったら昭和になりたい」、『かわいい海とかわいくない海 end.』)

 上のようなことをかき、考えているとき、私が勝手にそばに感じているのはこうした歌だ。「まだ頑張っちゃう?」ではなく、「それとも頑張っちゃう?」という、この「それとも」が身のひるがえされるとたんの息吹を伝える。死なずにな。

コモンと言葉(4)──毒/命、生、命

 それでもアニー・ル・ブランは耳をひらくべき言葉を発してくれている。「ご覧あれ、(……)主体が存在しないと胸をはるあのポエジーを」。実際そうだろう、胸をはって偉そうに言って済ませられることではない筈なのに。そして「主体とは一枚岩ではなく、文化的な産物であり環境的な構築物であり、交通と封鎖を繰り返すアンチ・表象・ダイアグラムであり、他者に、周囲に、独自に、構成され、後付けされ、掘り出され、やり直され、蒸し返され、見捨てられるもの、総じて可塑性をいつでも受け入れる、という条件のもとで可塑性に対して歯をむき出しに抗うもの」とうとう、と主体概念の単一性を撃ち落とすべく、ともかくも再検討するために言われてきたことが、どうして「主体など存在しない」と端的に言うことに力を与えると思えるのか判らない。ネット方言を借りれば「よかった……おっさんのおもちゃにされてきた主体なんて子は存在しなかったんや……」か? 「主体は単一ではない」をまさか「主体は存在しない」に聞き違えて? 「不確定性」と「不可能性」とがどうしてか混同されがちなように?(クワインのケース)
 居直ることが問題ではますますない以上、私はせめて今、「Queen Mary's Script」(gabicho、2013年)というゲームの最後を記憶になぞっていっていく。自分の家のなかをただ歩く。するとプレイヤーキャラクターのHPはどんどん減っていく。ダメージを受けている訳だ、ただ歩くことで。こうした状態に陥るきっかけはあって、それは「自分の部屋の外にいったんでると」という条件だった筈だ。といって家のなかのマップタイル自体に毒の沼的な意匠が施されているようには見えなかった。ここまであえてふれてこなかったゲーム内のおはなしの展開とその予想しうる帰結を思えば、どうして歩くだけでダメージを受けなくてはいけないのか、という理由はなんとなく判るものだし、制作者の導きも感じ取れたとは思うけれど、やはり歩くとダメージを受ける(HPが減る)ということの意味がRPGの作法の記憶連鎖を通じてのしかかってくる。
 歩行にダメージが伴う、ということの意味状況をひとは多くふたつに分類するだろうと思う。つまり特定のマップタイルがダメージ発生源であるケース(「毒の沼」の類だ)。それから、歩行者自身がスリップダメージやなんらかの怪我を抱えていると想定できるケース。まわりがあやういからダメージをもらうのか、自分があやういからどこを歩いてもダメージをもらうのか。環境の難か、主体の難か。「Queen Mary's Script」でプレイヤーキャラクターを操作し、減り続けるHPという情景を見ながら私が漠然とにも感じていたのは、でもこのダメージはなんなのか、といったことだったろう。先にかいたように、その理由はおはなしから十分汲み取ることはでき、「でも、それにしても」このダメージはなんなのか、と私は言いたかったろう。変わりないマップタイルも、ステータス異常をこうむっていないプレイヤーキャラの様子も、その「でも」に要領よく返事などしてくれない。慣習は強力で、歩くことでHPが減ることの意味を即座に用意してくれる。いずれにせよ、そういうことなんだな、と納得もでき、またよく判らなくてもそれはそれとして忘れたり、とりあえず先に進んだり、判らないことを丸ごと受け入れつつプレイする。そして……致死性であるのは環境か主体かをこうと断言できない場所のひそかなありかは、まだそこで眠りについている。

声にはならない言葉(私の心霊写真に起こること)

 自分にとっての「よすが」のひとつは、間違いなく、心霊写真のムックで眼にした「姉さん」という文字が浮かび上がった茨城県にあるアパートの写真だったと思う。私は小学生で、90年代のカラー写真は薄汚かった……。その写真も薄汚かった。話自体は有名なもののようで、ネットでも検証サイトがいくらでもでてくる。写真もそこで眺めることができるだろう。前述した通り、「姉さん写真」は心霊写真のムックに掲載されていた。ただし、「姉さん」という文字は罅や染みで滴るように構成されており、要するに四六時中そこのアパートの壁に浮かんでいたものなので、いつでも現地に行けば見れるものだったろう。だから、「その場では見えず、現像後に初めて明らかになるもの。偶然映り込んでしまったもの」という心霊写真の主要な定義のひとつには、これはあたらない対象ではあるかも知れない。
 この「姉さん写真」は、背景の伝聞とセットになって取り扱われている。かつて男の子がそのアパートの前で交通事故に遭ってしまった際、「姉さん!」という悲鳴を発して亡くなったのだという。男の子には姉がいて、その子は最後に姉を呼んだのだ、と。すると、アパートの壁に浮かぶ「姉さん」とは、亡くなってしまったその男の子の声に原因が求められることになるし、事実そう言われている。写真を見返してみよう。おそらくなにも知らないまま「姉さん写真」を見て、ああこのところは「姉さん」とかいてあるように見えるね、と判断できるひとはそう多くないだろう。だから多くの心霊写真がそうであるように、「姉さん写真」も必ず「実は男の子が昔……」というフレーバーテキスト、あるいは「この写真の、まさにこの部分は『姉さん』と読める」というような編集部からのインストラクションとセットで流通をえてきただろう。「ひとは自分の見たいものだけを~」といった退屈な事情通たちのコメントが近寄ってくるのもまさにここである訳だけれど、そういった萎れた声々からはもう少しだけ隔たっていてみよう。私の心霊写真と自分の耳とをふさいで守ることにしよう。
 写真を一目見たとき、私になによりショックだったのは、「姉さん」という文字からなんの呼びかけも感じ取ることができないということだった。たしかに、言葉であらためて説かれてみれば自分のほうが鈍いように思えてくる。「姉さん」と呼びかけながら亡くなった男の子がいて、そのやりきれぬ思念が刻まれてアパートの壁に文字が浮かんだのだ、という懇切な説明はしかし私の耳から早々に脱落した……。どちらかといえば「姉さん」という文字から、そう呼びかけた者の側を想定する、という感性に対してひどい違和感をおぼえるほど、この「姉さん」という文字は「自立」し「自律」していた。それはこの文字が一目で誰の眼にも「姉さん」と読み取れるから、ということではまったくない(先にもかいたように、この写真が少なくとも心霊写真として受けとめられるためには、やはり画像とテキストが対になった場所で見られなければならないだろう)。
 そうではなくて、端的に、この文字がそのまま「姉さん」の現れなのであって、それを実は誰が言ったかというような上階の存在など最初から弾きだされているほど、強い現前性を私に持つということ。罅と染みで構成されたこの「姉さん」という文字は、自分自身をしか指し示そうとは、表そうとはしていないように思える。私が取り違え、今も取り違え続けていることでこの写真に起きてしまう事態とはたぶん、本来は肉親からの呼びかけとしてたえずその遺言のチャンネルを開かせる筈の「姉さん」という「ストーリー」を、いやこれは当の「姉さん」が自分をかたどった結果の瞬間としての「姉さん」という言葉だと、指し示すものと指示されるものとが一致してしまっている言葉なのだとみなしてしまう感触がつねに破壊しに来る「事件」であり、しかも今もそうとしか感じられないという一事の顛末だろう。「姉さん」という文字を見る。すると、そこにいるのはほかでもない。

 カール・グロスベルクの絵が見れないかと探していた。……ミュンヘンにある「ミヒャエル・ハーゼンクレーバー」というギャラリー(https://www.hasencleverart.com/sites/contact.html)が配布しているカタログ(企画展用のものだろう)で、グロスベルクのものがダウンロードできたので見たけど、ただまあちょっと「それじゃないやつ」だったけど、ほかにもいろいろな作家のカタログが見れるようなので一番上にあったペシ・ギルシュの写真を見ていた。

・「Pesi Girsch, Thoughtfully embedded」pdf
https://www.hasencleverart.com/PDF/Download_Pesi_Girsch_2018.pdf

 まったく同じひとつの部屋、同じ構図で撮られた作品番号No.4やNo.6~8のありかたなどメインのモデル以上に背景が同一であることになにかかけがえないものを感じるし、一方で冒頭に掲載されてあるスプーンの頭に魚が顔をのぞかせている作品はかっこつけすぎていて鼻白みます、とかいろいろ思うものはあるけれど、No.20~24にひときわ眼を近づかせてしまう。先にかいておくと私はNo.20~24の一連の写真がかわいくって、だいすきで、それは明らかにしておかないといけない。通俗、ポップ、趣味性との癒着をいかに咎められようともう私はすきになっている……。各作品は大きな説明が必要とも思えない。クッキーケースやお皿の上にお菓子のように寝かせられたネズミ?か誰かの赤ちゃんをビーズや紙製らしいシェフ帽子で「盛りつけた」ものが広がる。「Bitter Mix」「Assortment」という題名が露骨に喚起するようなダークユーモア(赤子のつまみ食い)の質も眉をひそめられ、あるいは「そういう趣味はもう十分見たから、お腹いっぱいだから」とすげなく通り過ぎられるものには違いない。
 しかし不甲斐なくも私がまっさきに気にしてしまうのは、この子たち、この写真のなかの子たちが事実死んでいるのか生きているのかということと(疑おうと思えばどこまでも疑える)、続いてコラージュなのか実物なのかということで(信じようと思えばいつまでも信じられる)、作品の制作情報など知りえない私には必然的にこうした割り切れなさを連れて今は不純に愛することしかできない。こうした小動物の盛り合わせに対して「生死が……、世紀が……、また生き物の体を取り扱う人間の手が……、」と大仰にコメントすることがまったく見当外れであるのと同じくらい、「作品だけを見ろ、見えるものだけを見ろ」を生きられる者たちにはたしかに初めからかかわりあいもないだろう「生きてる? 死んでる?」系の不純さをあっさりもみ消していられるほど私も天使になろうと急いではいないと思う。気にしてしまう、というのはおそらくそれだけのボリュームは持つものではないだろうか。