信号待ちをしていて、民家の植木鉢の葉にとまったり飛んだりしている蝶がいて、じっと見ていると思いがけないことに犬……あるいは猫の動きそっくりだと判った。蝶は犬や猫に似ていると判った。蝶の興味の対象はこの場合、葉であるけれど、興味の対象にしばらくかじりついているしかたが似ている。また、それに飽きたように宙を飛び離れてまた帰ってくるしかたも。灰色の貝殻を砕いたような羽で地面に90度横向きになって葉の先に停まっている。左足のそばに植木鉢があったので私は首をねじりながら視線を落として見ていた筈だったようだった。交差点を渡ったのはそのあとの筈なので信号の変わりを見るためにもう一度首をねじり直すこともした筈だった。

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 肘の内側を見つめていた。自分のからだを眺めるのはすきだ、飽きない。肘の表面は発泡スチロールに似ている。とくに腕を伸ばしたままだとブロック状の皮膚が両極に引っ張られて、縦のすじの細かい密集体として眺められる。レッドグレープフルーツの肉色がきらきらしている。歌人は塩に執してきた、その史、そのつんざきを最終的なところで自分が共有できないことを受け入れながら。

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 女の子対男の子のラブコメということでは、2018年、私はこれです。わがままハニイホリック。そんな読んでないけどねラブコメ。下着ばんばん出まくり肉々しまくり食い込み見せつけまくりで眼つきのワルさが掲載誌(チャンピオン)。陥れ系、というには相手を陥れたつもりがあっという間に陥れられちゃって、言葉はいつだってまっすぐ。私、ラブコメはまっすぐさをナメないのがすきだなあ……やっぱり。自信と傲慢、変われること、さらけだせること。
 まといくんの白ソックス最高なのはもちろんだけどハニイの髪のラクガキ王国ぶりを見て!!!って感じ。ハニイ、髪のトーンの上から白ぬきで☆の落書きがばらまかれてるのね……あればあるだけうれしいもの。


甘木唯子のツノと愛 (ビームコミックス)

甘木唯子のツノと愛 (ビームコミックス)

 2010年から17年までの短・中編をおさめたもの。初期の「透明人間」の手紙の文体など「文学」の懊悩にやはり譲歩しすぎているのではないかと思ったし(ただしその返答で「君に」を採用した心は、思い切っていただろう)、「IDOL」「へび苺」も代理の愛や入れ替わりへの欲望とその困難といったモチーフで読まれてしまうものかも判らない(でも「IDOL」の最後のコマをそこで切ることで後に開くしかたには私自身態度を決めかねつつも、好感を持つ)。
 しかし。線についてふれなければ……そうだろう? 2017年の表題作は危険な言い方をすればだいぶキャッチアップされて、キャラクターの上まぶたと眼球との間の余白が広く与えられ、眉毛もスムーズな一本のぴんと伸びる線状性が意識されていると思う。それはつまり私の好みではある……けれど……初期の筆致の極端な曲がり癖、曲がり愛は、たとえば棒立ちである筈の子のそえられた腕さえ波立つように輪郭をとられている。そして、まぶたとぴったりくっついた極小の眼(点以上の大きさであることにかかわらず、この顔面積上でこのサイズはすでに感覚として極小と呼べる)。それは必ずしも私の好みではない、ということなんてどうでもいいだろう、自分の好みなどどうでもいいだろう、この線の前ではと思える。

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(久野遥子「透明人間」p.14、『甘木唯子のツノと愛』、BEAM COMIX、株式会社KADOKAWA、2017年)

 腕もそうだし、おでこ、顔のふちどりもときに瓢箪のようでさえあり(横顔にそれは顕著となるだろう)、眉はと言えばすっと直線でかかれたコマを探すほうがむつかしいほど、つねにもどかしく額の上を這っている。このもどかしさの質をキャラクターの「不安さ」に送り返してしまえば、ただちにそれもまたひとつの類型的な解読格子の世話になるほかないのではないだろうか。
 表題作「甘木唯子のツノと愛」はそして、表紙絵から即座に思い描いた私の勝手な想像からふりかえると、もっと遠いところまで行ってくれそうな期待をすなおに叶えてくれるものではなかったゆえに、次の作品も強く読んでみたい気持ちが高まった。


 博士ことアインシュタインに惹かれて。高橋葉介をどこか感じさせる人形性と毛織物性のミクスチャー。この構築的に横長な瞳の容量を十分確保した上で、ほっぺたのふにふにも全力で強調したいという思いが、このスライミーな顔全体のバランスを達成している。首はほとんど紐の細み。こういうバランスへの思い、私、よく判る……。何様と言われようとこういう造型にどうしてもらぶ、ということね。

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(宮永龍『アインシュタインの怪物』1巻p.17、Gファンタジーミックス、株式会社スクウェア・エニックス、2016年)

 風を必要とせず大きく広がる服飾の麗しさはもういろんなひとが言っているだろうと思う。船、洞窟、インテリアのかきこみ。その粘菌、茸、皺、枯れ木、斑点、あぶく、といった浸潤の模様は、たしかに設定だけ見れば際立ったものはないこのお話の内容を越えて遠い海を先導してくれている。

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 軍資金という言い方が甘美に思えたことはたしかにあった。まだお小遣いが私の家計を司っていたころ。中古CDの売買の繊細さに財布の中身のいっさいがかかっていたころ。そういう言葉の上でのつまさき立ちはほかにもたくさんあって……今はそれひとつ、軍資金、しか思い出せないけれど……ほかにもあったと思うな。


 パターナリズムでもマウントがなんとかでもなんでもいいけれど。たった今おぼえた言葉を片っ端からくちに出さずにはいられないひとが一定数いて、そして、それは私はかまわないと思う。速度によって考えていけるひともいる。ただ、どうしたって他人はその身振りの内実をかなり精確に見抜いてくれるし、私もほとんど匂いで判る。その用語がかきての吟味を通されてないということはむしろ一瞬で伝わるものじゃないか? 私は、伝わると思う。経験から言うとそういう、言ってしまえばアカデミックへの意志に対して無防備になるときというのは、自分以外の誰もが知っているように思える考え方への悲しいばかりの「参加」欲や(なぜ「今知りました」と言えないのだろう? 生まれたときから知っていたような顔をしても駄目だよ)、その用語を言うことで「それを知ってるならあれやこれも知ってるんだろうな」という推測をあてにしたいときだった気がする。気持ちは判るどころじゃない。私も今もその渦中にあるし……たとえばそして、アカデミックなところでの論文における引用の記法を最近知ったひとが、べつにそういうところでかかれた訳でもないしそうありたい訳でもないようなテキストに引用の正しい作法を上から「教えて」くれたりするのを、見たくもないのに見せられて。

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 訓練。教育。そう言えるようになるまでの。食べたい。眠りたい。なになにがしたい。なになにをやめたい。やめたい。皮膚をはがしたい。とりわけて頭皮を、顔の皮を。ピンセットで下水の髪の毛を十字型の鉄枠からつまみあげて缶詰の中に暗く拾っていたい、いつまでも。かけないことを忘れたい。調教。「Xしたい」という言語形式をくちにすることが死にたいほど恥ずかしいから。「なにかしたい」という私の傾向は、「Xしたい」という言語形式をきっと長い間監禁していた、表に出ないように。これが自分のコンプレックスと私は認めないし(苦悶はもう少し気の利いた告白録のために残しておこう?)、「Xしたい」とためらいなしに言えるひとたちを傷つけたくもないけれどこういう文はやはりひとをますますそっけなくさせるだろう(一言余計だろうな? ほらここの、「ためらいなしに」、がさ?)。Xしたいと私も言えるようになるから………見捨てないで訓練、見捨てないで調教、監禁と解放………空は星をてばなさない…………それにしてもタイトルをつけろと迫ってくるようだこんな日記ひとつにも、空欄のままではおかないとこの場所は眉をつりあげてくるようだ。誰もがほうっておかないタイトル、そして私もやっぱり夢中になってしまうタイトル(本文=顔に対する髪型という存在論的なポジションを私は想像している)。

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