よく「面白くてページをめくる手が最後までとまらなかった。ジェットコースターに乗るように一気に読み終えた」式の言葉を小説への褒め言葉と思ってるひとがいるがそれは褒め言葉ではない。というようなことを保坂和志が言ったのは保坂和志においてひとまず正当な言い分であったけれど、その流れで「だって本当にその小説の世界を気に入ったのなら本をさっさと読み終えて足早にそこを出たくなんてない筈だし、できるだけゆっくり読んでその小説の世界に長くとどまりたいと思うのではないか」というような言い分をするのにはそれもなんか違わない?と直感的に強い反撥をおぼえた。保坂和志の本を読んだのも相当に昔だし、まずこんな言葉遣いではなかった筈だけれど。
 一気に読み終えるとそれだけ小説の世界とのいわば接続時間(……)もとぼしいけれど、時間をかけて読めばそれだけ小説の世界とも長く交流が持続する……というモデルはどちらも読む時間を過度に作品の現前性と連結してみせている点で同じなように思われたからだろうか。「小説の世界」などという胡乱なうろおぼえの用語に自分からむざむざと巻き込まれかけているだろうか。また、ゆっくり読めばゆっくり小説に浸れるというのもほんとうだろうか(とてもそうとは思えない)。そして、こうした疑義をもった以上、まず文を、いやどこまでも原文を実際に読みこむという強靭な営為のほかにも、まるで小説の「持続」がありえるという「悪しき」「神秘」に私はコミットしていることになると言われるだろうか。

 vtuberについて私にかけることはすでにかいておいた筈で、ことにtwitterを辞めてからはますます自分ひとりで自分に受け答えする世界像になってしまって、いやそれでも、「まず愛すること」(アンドレ・ブルトン)さえ忘れ、○○がよかった、○○がよくなかった、くらいのことを自分でも信じていない口ぶりでいちいち報告するよりはもう少し違う語りのためのちからを蓄えるべきだろう、ということをあらためて思ってみてるけれどそれはそれとしてアイドル部はこれでずーっと全員追っかけて観てて、この前久々の牛巻さん配信(https://youtu.be/bl5bJ0wjq7U)では近所のお姉さんからゲームをいろいろもらった話がでてきたり、またピノさんが64のスターフォックスなんてプレイされてたので、いろいろ記憶をくすぐられてしまう。


 要らなくなったゲームソフトを山ほどもらうというのは私も経験あって、お寺の子供さんが受験でゲームをやめるから……ということで小学生のころ祖母を介してもらったんだった。それ以前にお寺に遊びに行くと、日当たりのいい廊下の隅に木の階段があってその陰に段ボールと大量のゲームソフトとマンガ本(「孔雀王」とかね)がちらと眼に見えてわあ、と思ったものだったけど、いざもらったソフトは「マイティボンジャック」とか「エスパ冒険隊」とか「クルクルランド」とか「ラグランジュポイント」とかでそういったゲームに対して適切な視線をもつことはやはり今でもむつかしい。つい最近プレイしたゲームで体内を模したグロテスクなレベルデザインのなか、下方向へスクロールする珍しい縦シュー「Rheum」も、瞬間的に記憶をたどらされたのはファミコン版「ドラえもん」におけるSTG面での下スクロールであったりして、感触は、根深く残っている。


 多少話がずれてSFCで私がお気に入りだったアクションゲームですぐ思い出せるものは「デモンズブレイゾン 魔界村 紋章編」と「ラッシング・ビート」で、これらはそれぞれ「スピンオフ作品」と「有名人気作品のフォロワー」という位置づけで眺められるだろうけれど、私自身はスピンオフの元のオリジナル……つまり「魔界村」はプレイしなかったし、「ラッシング・ビート」が歯をむき出しに臨んでいただろう「ファイナルファイト」も横目で見ていただけだった。こういった思い入れの乗せ方、原作に興味がなくてたまたま手にしたスピンオフやフォロワー(これは歌人の話でもある、あえてフォロワーというひとを傷つかせうる用語を振り回して言うなら私は誰かの「フォロワー」なんだと、いっときにせよ自認した歌人たちの道ゆきにいつでも胸をつかれる)の側にはるかに思い入れてしまう態度……も、いろいろな意味で自分を縛ってきたし、今も引き受けざるをえない問題ではあるに違いない。

 眠い眼こすって曲をかいて仕上げた。昨日の動画で鳴ってるのはメインテーマってやつですけどそれとはべつのやつ。ソロでなんでもこなせてしまうひとの数が莫大な今、ひとりでやってるってこと自体にはもはやなんのアドバンテージもプレミアムもないよな、とは思いつつ(小説の世界もいまだに分業制がメジャーにならない、って話はアシュタサポテがしてたな?)。意地とか述志、場所の問題。

「大杉栄、山口百恵、私の誕生日今日火の匂ひして」(尾崎まゆみ)

 頻繁に通る道で路上に面したところに緑色のコンテナのような機材が設置されていて、それには「大変×××」という白い印刷文字が小さく左下にかかれてある。あるとき気づいたのはこの「大変」とは「大宮変電所」の略称だということだけど、そのあとの×××という数字はそのまま私の誕生月日であって、これらがひとまとまりに「大変×××」という警告語となって現れているコンテナの局所からはいつも急かされているような声を知らず受け取っていたのかも知れない。しかし:そして:こうしたことや、また、絵を描いたあと黒いインクをくぐらせたペンを洗いに台所に行って、流しにべったりと落ちたインクがちょうど飛翔する鳥のかたちでしばらく残存したのを見ておぼえた感慨や、といったこと、要するに「日々の発見」を私は短歌にはかかない、とそれなりに強く自分自身に念じてきた。それも、この「発見」がほかの歌人のもとでは「かなりいい」歌、「美しい」歌にされてもしまえる可能性を暗く思い浮かべつつ、はっきりと「でも私は《これ》を短歌にしない」と頭に文字として浮かべつつ念じてきた訳だけれど、にもかかわらず歌をかきつける場所ではそういったことは忘れてきたし、忘れている筈でもある。「いや、必ずしも明晰な意識でないところで、自分の意識にのぼらないところで自分のからだが警告を記憶しているんだ」というほかの場所では正当な言い分も、ここではやはり口先ではいくらでも言えるものという思いがする。忘れが不履行と同じでないにせよ……それ以上のことはまだ、うまく言えないまでも。
 だからもしもひとがなにかを短歌にかかない、かくまい、とするなら、ほんとうにそうなのなら、それは、日々それなりに強く念じているだけではだめだろうという……かかなさを明らかにするためには、「私は《これ》を短歌にしない」と日々:いつも:それなりに強く念じている「以上のもの」が絶対に要るだろう。