「ひなこのーと」1~2話

 夏川くいなにひな子が「きれいなひと」みたいなことを言ってくれて救われました。髪の跳ねぶり、にゃーんなくち、物理的に本を食べる、といったマスコット指向の造型を十分与えられてあるかとみえるくいなだけに、そう言いとめてくれるひとがいて、心強かった。そうでなくっちゃです。キャラクターの配置にもふしぎに新鮮なものがある。
 コンフリクトが起こるのは、ひな子が人前では緊張して「かかし」化してしまうことが、作中でほんとうに畑のそばで「かかし」として立たされ、働かされてしまうという過去へ拉致されてしまうところで、私はこのことに肯定的なものを見つけようとしてむなしく苦しんでいる。軽いくすぐりだと思い込もうとして、どうしても流せないでいる。どんな他人でもなく、この私にとってこれが問題なのは、作中世界で「現に」「実際に」時間が経ってしまっているということに尽きる。ひな子の時間がそれで確実に奪われている、ということに尽きる。無時間性に基づいた可笑しみのシチュエーションが、きっと四季を伴いたい有時間の語りにぶつかって、じくっとひな子の時間が痛んで見える。ひな子自身の農家のひとたちへの感謝や、動物たちとのコミカルなふれあいはたしかに提示されてもいて、だからこのような言い方はひな子の気持ちに照らして不当だと言われるかも知れない。端的に言えばしかし、この子の時間を奪わないで、という私の小さいけれど決定的な不審はやはりだめだと言うだろう。折り合いをつけることは、不可能だろう。だから、わずかに、だからわずかには期待を持っておく。かかしが胸躍るイメージであるのには違いない。しかしそれを強く打ち出そうとしすぎて、「なんと、畑のそばに実際に借りだされるくらい」などという寂しく貧しいミメーシスにまで退却する必要はない筈だ。「われわれが望むのは、われわれを星々に結びつけている絆が、われわれを大地に繋ぎとめる絆にとって、致命的なものとなることである」(ジョー・ブスケ)。すでにひよこが寄りつくという正当なイメージはひな子に向かって芽吹いている。

広告を非表示にする

「チャーリング・クロス街84番地」

 これがある種の「孤児院もの」に映ってしまう理由を、贈り物の質とその差に求めるべきではおそらくないのだろう。たしかにイングランドの乏しい食料配給制のもとで暮らしているフランクたちへ届けられるのはハムや野菜や果物の缶詰といった食料品であり、そのお返しにヘレーネへ贈られるのは手作りのテーブルクロスではある。けれど、なによりこれは、人数の問題ではないのか。ひとりの手紙の書き手は、ひとりの手紙の読み手を持つ、という構図は早々に維持できなくなる。ヘレーネがひとり手紙を綴り、送るのに対して、それを受け取る側はフランク個人をあらかじめ超えて、古書店の(擬似家族的でもある)同僚たちでもあり、チャーリング・クロス街84番地というアドレスそのものとも見える。実際、ヘレーネ宛の手紙には、徐々に古書店の同僚たちの手によるものも混じりだす。非対称性はまずもって、このあからさまな書き手/読み手の人数的な不均衡に求めたい。

f:id:charonmile:20180525141533p:plain:w400
f:id:charonmile:20180525141609p:plain:w400
f:id:charonmile:20180525141651p:plain:w400
f:id:charonmile:20180525141732p:plain:w400
(「チャーリング・クロス街84番地」、 (C) 1986 Columbia Pictures Industries, Inc.、1987年)

 後半、ヘレーネとフランクがカメラの正面を見つめながら手紙の文面で語りかけるパートがある。言わんとするところは明瞭だ。交互にふたりの顔を切り替えるカメラは、「あたかも眼の前に相手がいるように互いに語らい合っているのですよ」と愚直に伝えようとする。互いの台詞は、相手の顔を容れたカットに余韻を落とすように割り込むこともなく、言葉と顔はそれぞれの画面で完結している。撮影上の技法をなにも知らない私でさえ、ここに「奇矯な冒険」として語られるようなものはとりあえずないように思われる。
 とすれば、このヘレーネとフランクの交互の切り替わりを受けて、カメラがなぜか水平に、水平に、ずれ込むように感じ始めるのは鑑賞者の側の、つまり私の問題なのだろう。ひとりはニューヨーク、ひとりはロンドンに住んでいることを知っているがゆえに、どれほど視線の向こうに相手を想定する詐術を繰り返そうと、一画面にふたりが同居して映ることはない、と鑑賞者は知っている。しかしまた、視線の向こうに相手がいるという信憑は、対話相手の顔を交互に映すことでカメラが絶えず裏表を忙しく往復するようなべつの錯覚を、思いがけず鑑賞者に分け与えてくれる。正面をアップで映し続けるカメラを裏切って、観ているこちらのからだが水平にずれていくような錯覚はおそらくそこから与えられる。視線の先に互いを認めながら、けしてひとつの画面に同居することだけはないふたりの人間を、一望しうる視点などないということを知りつつ、からだは想像的に、あがくように回り込んでいく。

広告を非表示にする

「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」1~13話

 自動手記人形、という字づらから誘いだされるものは当然ある。それだけ強い字づらだからだ。その手の「知識」はあらかじめ作品の外に置いてきた、とは言えない。干渉されるのはしかたない。それにしても、抑圧という嫌われ者を自分のある部分へと積極的に与えなければ感想ひとつかけないときもある。そんなことをわざわざ最初に言ってしまう程度には自分もつりこまれているだろうか。ところでひとが言うように文章中で「書く」と「言う」はしばしば混同される。ふたつ前の文で私は「言ってしまう」とかいた。そして今またふたつ前になった文で私は「ひとが言うように」とかいた(この「ひとが言うように」の意味は私は以前ある本でそんな主張を読んだ、ということだ)。かかれたものに対してこんな風に、言う、という口頭的な表現を持ち込んでしまう……持ち込めてしまう。この言い方が感傷に見えたならやり直そう、他人の畑から壊れたじゃがいもを拾い上げる子供は私じゃない。


 ルクリアと向かい合って互いの言葉をしたためていたのは3話。タイプライターを挟んで座るの、いい。4話、アイリスの「ねえ、自動手記人形さん。手紙、書いてくれる?」も。自動手記人形さん、ていうのね。こういう、あらたまってお願いする、あらたまり性には掛け値がない。あと手紙で思いを伝えたひとから翌日面と向かってなにか言われる照れくささとか。


 経験で言うとこの作品にかぎらず、お人形さんみたい、という劇中人物の台詞に共感することはない。お人形さんとは思えないからだ。私にはそうは見えないからだ。それは私の問題だ。すぐよくなるから、という慰めの言葉など信じられないようにだ。もし「お人形のよう」と誰かが言われたのなら、この作品世界ではそのひとはお人形さんのようだと見なされるのだ、と心に留めて観てください、という作品からの約定として受け取ることも少なくない。その自分の態度に泣きたくなることはないけれど、自分が「読めてない」ことはよく判り……だから作品世界の誰も指摘しない、ヴァイオレットの鼻の上の塗りの一刷毛、周辺の肌の色味と照らして狐色のようにも感じるペイントが、そんなことで泣きたくなるほどうれしい。


 あまり大きな問題でないところでは、「不殺」みたいな用語を、音声として発するための台詞に組み込むのはどうかと思いました。各話タイトルと劇中台詞を最後に重ねるしかたも鬱陶しさが勝る。EDは、タイプライターが糸を引く天蓋の絵が沁みた。


 作中で言われるようなサービス業としての側面に焦点化すればおはなしはメイドものの様相を呈するだろう。同じように帰還兵ものとして観ることも。女性に寄り添う女性……に寄り添う女性はそこかしこにいる。代筆という主題はそれ自体すぐれて気持ちをゆらすものだし、依頼を受ければどこへでもというヴァイオレットの道行きを追えばそこにはロードムービーの側面さえ見いだせるだろう。その豊富な手数をひとはそれぞれ受け取ってこの作品を観るのだと思う。さらにブーゲンビリアの兄と弟にはどうしたって淫靡な匂いが立ち上がり、私だって興奮しなかったとは言わない。その豊富さを受け取った上で、ここではヴァイオレット・エヴァーガーデンの顔だけを思おうと思う*1


 相手の言葉に、身振りに、驚き、情動をわしづかみにされ、はっと息を呑むことを自明の表現としてしまえば、すでに毒されているには違いない。アニメのうちでも思い余ったひとは、なにかを「表現」しようと思ってはっと息を呑む訳ではありえないから。そもそも「はっと息を呑む」という言い方さえアドホックなものではある。
 しかしヴァイオレットのことを思い返してみて最初にわきあがるのは、彼女にそのようなシーンがほとんどなかった、ということよりははるかに、ヴァイオレットがはっと息を呑む瞬間だけが映像に残されないようにされているという確信に近いなにかだった。撮られないことでヴァイオレットの瞬間が守られていると言い換えてもいい。もちろんヴァイオレットは驚かないということではまったくない。そとから見れば顔色を変えないだけでほんとうは、とかそういう話でもない。そうではなくて、カメラに映るのはいつも「息を呑み終わったあと」のヴァイオレットの、徹った顔そのものだという確信だ。相手の顔とヴァイオレットの顔と、カットの切り替わる隙間に息をついた瞬間は差し挟まれていく。そのことに映像上の根拠などいっさいないからこそ、私もひとり、間違って確信することをゆるされている。

f:id:charonmile:20180523170641p:plain:w500
(「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」第5話「人を結ぶ手紙を書くのか?」、©暁佳奈・京都アニメーションヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会、2018年)

*1:平素の表情から掬ってもいい。早いうちからヴァイオレットはちょくちょく「情けない顔」を見せてくれていた、と言っても彼女を貶めることにはならないだろう。藤田春香(シリーズ演出)による「おぼつかない子」(http://violet-evergarden.jp/special/worldtour/#rpC3AFA)というコメントもまた、私から見えるヴァイオレットのそういった顔――ぼろぼろな、ぼろくそな顔、に対する心象に沿うものではあった。

広告を非表示にする

 帰宅して毎日二本づつ映画を観てる。映画を観るのがただたのしいと思う。映画コンプレックスの私が……。こういう日が訪れるとは思わなかった。これは、予想できなかった……。
 シャマランは「サイン」「シックス・センス」「アンブレイカブル」「レディ・イン・ザ・ウォーター」を観た。「ヴィレッジ」が置いてないけどそれ以外は観れそう。劇伴嫌悪だと自分では思ってるけれど、このひとの映画のほとんどの場面も無音にしたほうがずっとマシと思ってしまう。

広告を非表示にする

「ガラスの花と壊す世界」

 予定を立てるたのしみなんておぼえちゃったら、もうなんでもできそうです。ばらばらなのは眼の前の明るい家屋のほうで。映画が始まったころには互いにさかさま(それが絵的に誘惑ではあった)だったデュアルが、ドロシーに髪をいじらせるのをゆるすとカメラは空へ流れていく。


 とりあえず二回通して観て。「それらしいなにかを感じることはあるけど……。人間の感情というものだね」(デュアル/種田梨沙)、この言い方がうれしい。じっと覗き込むのはリモ。持続する瞳のひと。私が肩入れするのはドロシー。バージョンアップもダウンも身軽と感じられるなら。そしてもう、身軽と思えば身軽に感じる、なんて迂回して言ってる訳じゃない。


 ふたつのときめくような挿入歌が結ぶ地球めぐりのシーンはもちろんよくって。挿入歌の流れる場所というのを思う。至るところというのを思う。ジェラール・ド・ネルヴァルからアレクサンドル・デュマへの狂おしい手紙のあの一節を。エッフェル塔、ピラミッドから、湖畔のボート、コンビニのアルバイト、修学旅行まで経験してまわる三人。ドロシーはどこで予定のたのしみをおぼえただろうか。デュアルはどこで、むきになることを。画面上では繋ぎ合わされたバカンスに、挿入歌が糸をくぐらせていき、なんの、いつの時間で計るべきか知れない作品の時間というもののふるえを、西暦を元につくられた設定などよりずっと端的に伝えてくれる。
 ペットボトルの上のつまさきだちスピンがすき。わあ……です。「宇宙よりも遠い場所」といい、遠くのひとは小さく見えるってだけのことがなんでこんなにいいんでしょうね。

広告を非表示にする