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ちぎりおえたあとで

気散じ

 春にして思う……。冬を? いや、秋まで、かなうなら巻き戻してみたい。十一月、十二月、三月と、セブンイレブンネットプリントサービスを通じて短歌が印刷された紙を手に入れることが出来た。「全く新しい効能を持つ都市間交通システム(仮称)」( http://d.hatena.ne.jp/ami_me/20121115 )、「ピヌピヌ」( http://blog.goo.ne.jp/imawik/e/b55c1b6d7d43d2363d2b2b47b3c5f3f9 )、「ぺんぎんぱんつの紙」( https://twitter.com/penginpantsu/status/313269909272543232 )の三通。

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 この三通は紙の使い方を教えてくれたように思う。印刷された紙を読むことがどういうところへひとを誘うのかを教えてくれる。たとえば「ピヌピヌ」は、印刷後の製本が読み手に期待されている。カッターで切り、手で折ることで出来上がる小さな本。その折り本をつくるまで、ただし三ヶ月かかった。この三ヶ月は手元にないカッターを買いに行くまでの時間、カッターが手に入るまでの時間、怠惰な時間の証明でもあった……。 「ピヌピヌ」はだから、折り本としてつくられることを期待されながら、まっさらなプリントしたままの状態でまずは読まれることになった……。「ねえ、ひかり、青だけいらないの? ひかり、青だけ残る窓辺のポスター」(石畑由紀子)、「カノープス と呼べば清かなさえずりのおまえが贄にならないように」(氏橋奈津子)、「陸に塩こぼす小さなまじないを教えてあげるからついてきて」(村上きわみ)。三人の参加者、ひとり五首づつのこの小型歌集を、ようやく切り抜き、本のかたちにしたあと、各ページをうんと開いて伸ばして上から見ると回転ドアのようになる。部屋の歌の回転。
 一方で「ぺんぎんぱんつの紙」には折り目をつけることになるだろう。かさばる紙、大きな紙を読みやすくするために真ん中で折ること。この、折り目をつけるという最もシンプルな製本を通して得られる「偽カード集」という連作は魅力だ。もちろんそれはカードゲームの「解説」の魅力そのものを思い出させてくれるからというのもある訳だけれど……。チョコがけポテトチップスのように、デッキを短歌がハックする。その周囲にエッセイや質問がそれもひとつの引ける札の山のように散らばる。「君がため春の野に出でて若菜摘む と見せかけてすべて毒薬なわけだが。」(しんくわ)、「ばらばらの舌がわたしに食い込んでほんとうに重いモノローグだね」(田丸まひる)。
 二枚の紙を組み合わせてつくる、という点で複雑な下敷きの重ね合わせのように読んだのは「全く新しい効能を持つ都市間交通システム(仮称)」(吉田恭大)。この作品ではテキストが二枚の紙にまたがって印刷されている。だから片方だけ読むと、短歌として聞こえそうなリズムを持つテキストたちが途中で分断されているという印象を与えそうだ。といって、上句と下句の接続面で明瞭に分断されているのでもない。むしろここでは読み手ひとりひとりの側にある上句だとか下句の概念が洗い出されているのだろう。上句だとか下句といった、ある言葉数のユニットを把握するための予断をしきり直しにする経験がここではゆるされているのだろう。「ともすると死ぬがきれいな水の盥でザリガニを」という言葉のユニットひとつにしろ、それを丸ごと上句(あるいは下句)として見るのか、それとも「ともすると死ぬがきれいな水の盥で」までを上句と見るのか……云々。そこには言葉の組み換えの誘いが持ちかけられてもいる。どの断片がどの断片と関係を結ぶのか、どの上句がどの下句になりえるのか、その予断にシャッフルがかけられている。実はこの作品の二枚目にあたる紙が部屋のどこかで消えてしまったので(……)、初読時にこちらで勝手につくった歌のヴァリアントを写しておく。「性別の尽きて明日も愛称を募集されてるひかりで行くね」「左脳から沢山人を乗り継いで最後の街をまだ走らない」「一月は十一月へ ザリガニは泳ぐ前にはだいたい踊る」「眠たくてハラショー、眠くてスパシーバ 米に栗原類を乗っけた」。以前同じ作者によって書かれた「NNN/NIS」という連作もここには混じえながら。泳ぐ前にはだいたい踊る……とつぶやけばだいたいハッピー。


 切ったり、折ったり、紙と紙を重ね合わせたりしながら……「めくる」「閉じる」「付箋を貼る」だけではないしぐさを紙に与えながら……そうやって歌を読みながらべつのことも考えていた。漫画や小説を買うとよくいっしょについてくるものたちのことだ。ふろく。特典。オマケ。広告。「もったいなくて出せない」読者アンケートハガキだとか、「拡大コピーして切り取って遊んでね」と語りかけてくる双六、着せ替えイラスト、クリア栞だとか……。

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 アンケートハガキとして、双六として、着せ替えイラストとして、栞として、実用的に「使う」ように、あるいは切り取って「遊ぶ」ようにそれぞれ読者に差し出されてはいるのだけど、そうすることをふと放棄させるものたち。そして使うことを放棄し、ただ眺めることがむしろこちらの心を嬉しくさせてくれるものたち。台紙から抜け出てべつの生き方をさせるようこちらにうながしながら、同時にそこに留まり続けるのだってちっともつらそうじゃない、そういう風に見えるものたち。
 プレゼント的でもあり、可動的な体のようでもあり、「なにかの途中であること」を楽しく過ごしてみせているような、こういったアイテムとそばにいると特別なものが浮かび上がってくる。それをいつも感じるようだ。
 「使うこと」と「取っておくこと」の間で楽しく悩み続けることをゆるしてくれるもの。アンケートハガキや双六に対して感じる思いはそういったものだけれど、ここでひとつのしぐさが思いの淵をよぎる。そのしぐさはシュルレアリストがとった避難の活動に関わっている。絵や物語の恐ろしい情景の中にいるキャラクターに「そこにいちゃ危ない!」と思わず手を差し伸べたくなるとき、ひとは思いのハサミ=コラージュを手にしている。ウニカ・チュルンが『ジャスミンおとこ』で述べている挿話はそのようなことを伝えているように聞こえた。火が燃え盛る地獄の絵があり、そのすぐそばには「とても小さな赤ん坊の悪魔」のイラストが配置されている。その子がいつか火傷をしないかと心配で、彼女はイラストの赤ん坊の悪魔を絵本から切り抜き、クルミの殻をベッドにして寝かせてやる訳だった。

「私が子供の時に」とこんどは彼女がおでぶさんとおやせさんに物語をする、「私がとても好きな絵本を持ってたの。それは《不思議のハンス》という本で、その中に地獄の大きな絵があって、悪魔やおばあさんの魔女がたくさんいて、一面火でまっかなの。この火のまん中にとても小さな赤ん坊の悪魔がいたけど、きっといつかやけどするんじゃないかととても見ていられなかったわ。それで鋏を持ってきてその赤ん坊をこの地獄絵から切り抜いて、くるみの殻をベッドにして寝かせて、布ぎれを掛けてやったの。とてもうれしかったわ。私が人を救ったのは一生のうちこれっきりなの」

 (ウニカ・チュルン作、西丸四方訳『ジャスミンおとこ』p.66、みすず書房、1975年)

 追放(デペイズマン)と表裏をなす、避難としてのコラージュとでも言うのか。避難活動の対象がキャラクターに差し向けられればそれはコラージュになるだろう。小さな悪魔の赤ん坊は紙から切り離されてべつの場所で生きるだろう。そして、避難活動が言葉に差し向けられればそれはアナグラムの遊戯になる。言葉はべつのポーズをとれる。そういうことだろうか。余計な介入と言えばいつでもそう、いつでも、だけれど、その余計がなくてはまったく潰れてしまうもののための手作業もあるのではないかと思う。
 「そこにいちゃ危ない!」という思いのハサミが一方にはあって、他方では、アンケートハガキや双六のように「切り離して使ってね」と紙のほうからうったえてくれるアイテムたちがある。紙に半分だけ入ったキリトリ線がその間で海藻みたいに揺れている。キャラクターたちの足元をもしかしたら波みたいにひたしている。

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 ときには指がハサミの役目をつとめるだろう。『金魚坂上ル』1巻の特典は栞だった。それはなんだか、「切符」だった( https://twitter.com/kyollect/status/300829140498653184 )。ちぎったから切符なんだと判った。ちぎる前には判らなかったことだ。もしちぎっていなかったら……? そのとき今、切符のように映るものは、またべつのしかたで楽しげに揺れていたに違いない。

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