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早野臺氣『海への会話』

気散じ

 想像で補完できそうなことを省略せず糞真面目に言う。出来事や認識のつながりを露骨な順接表現を使ってわざわざ言ってみる。ということで生まれる言葉の物質性は、「ふくらみてはしる窓の燈しゆんかんの電車であるから高架のこさる」(「旗」)の「であるから」、あるいは「芝のうへに椅子はパイプでできているからハガネのうぐひすはだかを曝す」(「海への会話」)の「でできているから」に感じられるもので、表面的には順接にもかかわらず、韻律の幅の押し開き方と相まってぎくしゃくした混乱なしには読めない。因果関係を強調されるほど詐術を働かれている気がするとか、そういうのもある。
 早野臺氣の短歌を語の奇抜な採用やモダニズム詩的な文脈からの評価ではなく、意識に対する配慮の緻密さにおいて受け取る見方(黒瀬珂瀾「早野臺氣―意識のデフォルマシオン」)を確認したあとでは、感じることと歌うことの絡み合い、動揺に身を明け渡すことの意味もたしかに、また違って見えてくるようだ。同時に、「であるから」「でできているから」という前後二項を短絡させる文法が身に響いてもくる。「であるから」「でできているから」と歌のなかばで先に書きつけてしまうなら、それはまだ発生してもいない後の項の可能性を先取りするような力の配置へ歌を起こし、歌の全身に働きかけてしまいそうだ(実際にそう作歌されたと思っているのではなく、言葉の発生の現場をそのように遡行的に思わず想像させる文体だということ……)。「風船に鼻あててゐる草のなか秋ふかしこころも破裂へちかし」、未決定なものが破れる。未決定なものへと破れる。


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 海への会話。「海との」ではなく、「海への」。後者の場合、関係は微妙だ。海を目指す、海に向かう、そういうものとして会話はあるとも見えるし、会話自体に海は(擬人化された前者のようには)必ずしも直接参加している必要もないのだろう。海から隔離されたところで成立した会話をあらためて海に向けて持ち込むまでの時間差を思ってもいい。当の会話が海に届くまでの経緯やためらいを思っても、いい。ぽつぽつと言葉少なに語らうとき、眼のはしに海(広々と溜まった水、ですらいいかも知れない!)がたまたまちらっと見えていて、それで海への会話たるに十分ということだってある。海がただそこに満ちており、会話の中身にはいっさい関与しないというかたちで関与していたりする。こう書きながら「つり球」のハルくんたちや、「かみちゅ!」のゆりえさんと光恵さんがフェリーの上で自転車を手にしている姿を思い浮かべている。胸に貼った絆創膏は泳いでもとれない。海のあちこちの傷口をかすめていく。
 「山崎敏夫のBOUTONNIEREの位置ばらになり海への会話がむねにさげらる」。表題が作中に出てくるこの歌からは、山崎敏夫という特定の個人に向けられた視線も聞き取れる。「海への会話」の「会話」が海に対するdedicateの位置につくことを思うとき、同時にそこではまた、ひとりの相手へのdedicateが了解されていたことに気づく。「さげらる」が「ささげらる」と誤認される瞬間。「山崎敏夫のBOUTONNIERE」と下句の「むね」が仮に同じひとつのボディを共有しているものと考えてみるなら、どうだろう。ここでボタンの穴に挿された薔薇の花の下には命を保つための水はないようだけれど、かといって厳しい塩水もなさそうだ。そこには「会話」があるばかりで、海に向かって茎みたいにぶらぶらしている。

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