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hinausgehen(火の腕えっへん)

 夕立。
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 二年前に書いた文を少し編集して再掲。


――


 いわゆるところの記号の恣意性の中へまどろんでいきたい言語遊戯と当初思われていたものが、むしろ感情の切れ込みに最も激しく突き当たる場所に深く届いていたことが露出してしまう、そういう場面がしきりに胸に浮かぶ。
 たとえば塚本邦雄がカリグラムを紹介する際、「刺殺された鳩と噴水」を前にしては友人の死や反戦性にまつわる配慮を必ず書き添えた訳であり、またレーモン・クノーが取り上げたドミニック・シリエの視覚詩的な活版印刷に露わにされていたのは石の塊のような抗議だった筈だ。抗議。言語遊戯の新鮮なバリアントとして与えられた記号短歌というレッテルがあやふやに作動する中、荻原裕幸が提出した「世界と波長が合わないと感じたことは一度もない」という一文に投じられていたのが、まさに「違和感という記号」に対する抗議でなくてなんだったと言うのだろう。言葉の単線性に対する抗議、抗議という単線性に対する言葉。廃車の山のミラーたちがいっせいに映す空。ハンス・ベルメールとウニカ・チュルンが試していった人間の同一性に働きかけるアナグラム、類音操作を通じて言葉に見たこともない呼吸の穴をあけていくロベール・デスノス(http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/8469)、ウリポで追及されたリポグラムを独自に扱ってみせたジョルジュ・ペレックが彼自身の記憶を相手取って行う切り絵の道行き(『Wあるいは子供の頃の思い出』)、それからオートマティスム


 方法を宣言し(メトードと『水葬物語』)、先行者批判は苛烈に(「零の遺産」)、そして未来に身をかたむけた語りを挿し込む(「荊冠詩型」)……と雑に見ると塚本邦雄もまた、アントワーヌ・コンパニョンの整理する前衛概念に言いくるめられそうな展開をのっぴきならなく選び取った部分はあるのかも知れない、だけれども「零の遺産」を末尾まで読むとき、そこで投げかけられているのが「先行者を引き継がない」という拒絶と釣り合う重量の、「だが忘れることもない」という宣言だったこと、この二重命令であることに気づかされるようだ。否定することと滅ぼすことは違う(陣野俊史)。先行者の営為の数々を見て取った上でその不備を否定する、その否定という記憶術への瞑目が「零の遺産」という撞着語法を支えていた、ようだ。

 人間には、いわば神話好きとでもいうような機能が、生れつきにあるらしい。たとえば、なにか常人ばなれのした人間でも現れると、たちまちこの機能は、彼の生涯の中の、あるいは異常な、あるいは神秘的な、出来事をとらえてきて、すばやく伝説をつくり上げ、今度はそのまた伝説に対して、すっかり狂信的な信仰を捧げつくすのだ。それは実生活の平凡さに対する、ロマンスの抗議だともいえる。
 (中野好夫訳、サマセット・モーム『月と六ペンス』p.9、新潮文庫、1959年)

 「零の遺産」において文学で身を滅ぼす式の厭世感云々と批判を向けていたのは、このような「エピソード」へひとびとが抱く度し難い愛欲だったのではなかったかと思う。生への反論はなされる。ただしそれはお前たちの愛欲にまみれた「エピソード」とは違うかたちにおいてである、とでも言うかのような。
 とはいえ私生活の乱脈を避け、伝説を避け、エピソードを避け、創作に徹したとして今度はその禁欲の身振り自体が作者の伝説なりエピソードなりの位置を遠からず埋めに来てしまう不自由と言えばあまりに不自由な人間の視力が色づくモミジには……「結局『ストーリー』がいちばん売れるのか……という『複雑な気持ち』」(枡野浩一「あとがきにかえて」、『一人で始める短歌入門』)……いくつものさわり方がある、という気持ちをここではことさら紙に折らないにせよ。

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