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私がよく見ていた日記では「仕事して帰って寝た」という一行だけ更新される日々が長く続いたりしたけれど、抜け出すために今は保っていかなければならない最低限の話し方のようなものをそういうところでおぼえた(気がした)

気散じ

 それにしても数字によって証明しようとしてしまう。そうじゃないか? 数字が入り込む暇など与えるべきではないと思いながら「○ヶ月くらい誰とも××してない」とか「たぶん○○年くらい××やってない」とか言ってる。それは証明ではない。それは「報告」という修辞のだるい部分をあますことなく伝えるにせよ。自称する数は手負いだらけで逆に無傷に見える。それが鬱陶しいし、「くらい」「たぶん」というほかの場では愛せる措辞すら報告の言葉のそばでは嫌ってしまいそうだ。報告と忠実、報告と忠実、……。自分の話ですが。苛立ちの基準はとくにない。単に我慢ならなくなるだけだ。いつもではなく。でもしばしば多く。
 だから、だから…………違うことを話すべきだ、という自分への約束はそういうとき思い出される(約束が伝わっているかの確証も返信もないままそれでも信じて交わしたい気持ちの未配性をくんでの「自分への」であって「自分との」ではない。約束の札は毎回切り直されるから。そしてこれはつまり他人への約束)。「○○とは違うことを話すべきだ」というときの、たとえば○○という比較対象をあらかじめ切り離した、しいて言えば「(なにか)違うことを話すべきだ」と言うほかないような思いが、数字のだるい圏内から離脱することを少しだけ後押ししてくれる。私、違うことを話したいってよ。

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