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気散じ

 「初めて読んだときから、梶井基次郎の『桜の樹の下には屍体が埋まっている!』は、詩的表現としても拙いものだと思ってきた」(http://d.hatena.ne.jp/desdel/20080328)。
 『桜は本当に美しいのか』ってタイトルを聞いて最初に思い出したのはこのエントリだったりしますが。本はまだ読んでないです、書評(吉田隼人)のみ。


 読み返している『弔いの哲学』から。

 アドルノの言う罪科とは、「偶然に」「確率計算で予定されたかのように」生き残ってしまったことである。圧倒的多数の人間が殺されてしまったのに、たまたまこの自分が生き残ってしまったということに、いかなる根拠もいかなる正当性もいかなる意味もないということである。もちろん証言者として登場するために、生き残ったわけでもないのだ。「偶然に」「確率計算」がほんの少し変わっていたら、自分は殺されていた。とすれば、自分が生き残ってきたのは、確率計算によって奪われたであろう他人の生存の〈分〉を、自分が何の権利もないのに奪い取ったということになる。犠牲者が死んだおかげで、自分は生き残った。このように死と生が関係づけられているために、犠牲者は絶えず回帰してくる。自分の生存の〈分〉を、返せと言うかのように回帰してくる。
 しかし罪科は、そんな「確率計算」を実行した者たちにある。こんな自明なことが、なぜ見失われてしまうのか。(……)繰り返す。なぜアドルノは、生存者に罪科があるなどという馬鹿げたことを書けるのか。なぜアドルノは、犠牲者の死と生存者の生のあいだに関係を捏造するのか。「偶然」「確率計算」という関係、すなわち、収容所における恣意的選択という関係の下でしか事態を見ないからである。より強く言いかえよう。アドルノは、収容所で恣意的選択をする側に立ってしか事態を見ていないのである。そもそも、収容所の死は確率計算による無意味な死であると語ること自体が、恣意的に殺害する側に立った物言いでしかない。あえて書いておくが、たとえ一度に大量に毒によって殺されたとしても、それぞれの死に方には微細な差異があったはずだ。それぞれの人は、特異でかけがえのない仕方で死んでいったはずだ。そのような差異を感受しようとしないことが、すでに退廃であると思う。もちろん、そんな差異を言い立てることは徹底的にむなしい。しかし、それを言い立てることをむなしくさせてしまった側に立って事態を見るべきでないことだけは動かないのだ。
小泉義之『弔いの哲学』p.67-69、河出書房新社、1997年)

 一般に、殺人を防ごうとする企てや、殺人を無くそうとする倫理は、必ずや無意味な説教に終わる。いつでも殺人は起こってきたし、いつでも殺人は繰り返されるからだ。殺人とは、社会生活を営む限り、必ず負わざるを得ない危険負担である。社会生活は、殺人を可能にするような妄想にささえられているからである。だから、戒律を守りたければ、また戒律を守らせたければ、殺人を無くそうなどとは考えずに、殺人が起こりそうな場所から遠ざかることである。身近な誰かに殺される怖れがあるなら、家をかまえなければよいし、会社に行かなければよい。見知らぬ誰かを殺す怖れがあるなら、国家に忠誠をつくさなければよいし、自動車に乗らなければよい。見知らぬ誰かに殺される怖れがあるなら、人に会わなければよい。簡単なことだ。殺人現場、事故現場、戦場から遠ざかれば済むことである。ここをふまえて、<殺すことはない>という戒律の意味について考えていこう。
(p.94)

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