文鎮、カタパルト、鈴(452)

 両義的な言葉にどうも、後ろ髪を引かれてしまうようだ(正確にはあの意味を思えば、この意味がすぐに後ろ髪を引く、という言葉のしぐさにときめく……と言ったらいいだろうか)。たとえば「最後の人」(ブランショ)という題についてはいつかデリダも書き残してくれていたと思う。この世界に残る最後の人間という情景を誘うと同時に、ある特定の人物の生の最後の瞬間を思い起こさせもする、最後の人。

"短歌になってる" - Google 検索 約 13,300 件

 ひとがある文章の特定の箇所を指して「短歌になってる」と言う。さしあたってこの言明はふたつの方向に向けて読める。ひとつは意図なく書かれた文章に短歌の57577を発見したという意味で「(この文章は)短歌になってる」と言う場合。もうひとつは作者があらかじめ短歌の57577を考慮して書いたように思われるものの、「これは短歌です」というジャンル指標を添えず発表したものに読み手が反応して「(この文章は)短歌になってる」と言う場合(作者の意図を実際にはたしかめようがないので、その点、仮定的な信憑の上で進める話題だけれども)。
 後者の「なってる」はあらかじめ57577を目指して作成されたものの意図を事後的に読み手が請け負う、という意味で追認的と言えるかも知れない。だけれども、前者の「なってる」は読み手の発見でもあり創作でもあるとも思える。看板の注意書きや作品の台詞に、感想の一言に、区切れなく続く文章の特定の箇所に短歌のリズムを発見したと、ああ、この文章は「短歌になってる!」(まるでそこにある文章がすべてを用意していたのであり、自分は何も手を加えていないというように)、そういう風にひとが言うとき、本当には、そのひとはその瞬間、短歌を創作してもいるのだと思われる。つまりこうだ、「短歌になってる」とひとがまったく受動的な驚きで言うとき、そのひとはその同じ発見の手で当該のものを「短歌にしてる」。「なってる」という気づきと「してる」という働きかけはそこで、切り離せない述語を描写するのではないだろうか。たとえ文面の綴りをいっさい変えずとも57577の指標を持ち込んだ時点で、その者は当該の言葉の声を激変させている、その処置を施している。どうだろうか。


 なにげなく書いた自分の文章の一部分が「短歌になってる」と指摘された場合はどうだろうか。ばつの悪さは隠せない。とはいえ意図していなかったことを指摘されることは短歌にかぎらずなんでもばつが悪かろう、とも言える。「けして、そんなつもりでしたのではないですが(……)」。だけれども、話題になっているのが他所の文章のうちに見出された短歌だとしても、ある種のむずむずした感じが残るのはどういうことだろう。そのばつの悪さは一度発表されたものが、掘り起こされ、あてがわれ、あらわにされ、取り上げ直され、といった読み直しと書き直しのせいだけなのだろうか(……)。また、そのように意図せず「短歌になってる」ものの発見にくすっとした喜びを感じる者もいれば、始めから意図してつくりあげた短歌に比して徹底して軽蔑的に振舞う者もいるかも知れないし、実際いるかと思う。そのことの詳細にはここで立ち入らないけれど、「短歌になってる」とひとが思わず口にするとき、「なってなかった」と「なってる」との間で輪郭をつかのま輝かせる言葉の時間差について今、少しづつ触れ始めている。
 ある時点まで短歌として遇されなかったものが、ある個人の身体によって短歌の袖と触れ合うかも知れない、という。たしかにどこまでもあやふやで、「すぐ風に飛ばされてしまう語彙」しかまだ用意できそうもない、まだ、うつむきがちに語らざるをえないようなこの感触を、ネルソン・グッドマンの定式を言い換えて書いてみれば言葉は「いつ短歌なのか」と、そんな問いのかたちになぞってみることは、できるだろうか。

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