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十月ののんちゃん、季節は名前に英雄

気散じ

ロラン・バルトに「ロラン」が付くのは、「バルト」と言えばカール・バルトだったから。ジュディス・バトラーに「ジュディス」が付くのは、似た事情もあるが、女性名を有徴化する学界作法による。一律には行かないが、同等にすべき。「柄谷」と書くなら「大越」、「大越愛子」と書くなら「柄谷行人」。
https://twitter.com/sentanken/status/11601314983182336

 性別問わず作者の姓名のうち、「名」のほうを重んじて自身の文中に書き並べてみせた塚本邦雄の作業が思い出される、といつか書いた。塚本邦雄の文中では、斎藤史は「史」、与謝野晶子は「晶子」と呼ばれ、浜田到は「到」、岡井隆は「隆」と呼ばれる(すべての時期・すべての文章で徹底されている訳ではなく、その呼び方の強調に眼が覚めるということ)。姓ではなく名で呼ぶことで、その人物をほかの人物から分離するための識別、あえて言えば「どちらの」識別により多くの意味をかけられるか、かけたいと書き手が思っているのか、といった想像はここでは措く。ところでほかの書き手の文中に塚本邦雄が呼び出されるとき、「塚本」と省略されるのがほとんどであって、「邦雄」と名のほうで指示する書き手はほぼ見られないように思う。それは塚本邦雄ひとりが対象であるのでもなく、ある通念として、名のみで姓名の省略にかえるという手つき自体にただではない愛憎、たがの外れた感じ、そこからくる窮屈さ、鬱陶しさなどのもろもろが染みこんでいるとも言える(この感じ方も「慣習」であるにせよ)。


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ベン、シャーンの一致の拳に風立たばはるかなる一組ずつの新婚旅行/「遠き接近」
パウル、クレーの「北極の雪どけ」見せしのみ術なきかなや我は唖者/「やさしかりしを」
精霊の牛 馬 蓮華見下せりホアン、ミロはほほえみて来る/「雨粒」
(雲出雪枝『接近』、白日社、1973年、p.14、p.114、p.178)

 「ベン・シャーン」「パウル・クレー」「ホアン・ミロ」……画家の名前がここでは中黒を拭われている。なにが残るだろうか。外国の人名をカタカナ表記するにあたっては、姓名の間に中黒を打つというのがそれなりに長く慣習を示してきた。そこに読点が吹き込まれて残るものは、つまりたとえばひとりの名前にふたりの名前(まずい修辞)、「パウル・クレー」を「パウルよ」「それから、クレーよ」とそれぞれに呼びかけるように名前にとらせる最小限の編成。中黒でひとまとめに結ばれた人名を読むときよりも読点によってくじかれた姓名は韻律という呼吸の制度の中で足をとられる、まさにそのもつれ方によって、姓と名はそれぞれの足取りを伝えようとするのだと感じる。パウル・クレーというひとをパウルともクレーとも呼ぶことがあるし、あってよいし、あってゆくだろう、パウル・クレーにはパウルというひともクレーというひともいるし、いてよいし、いようとするだろう、そんな姓名の切ろうとするスタートへの短い伴奏であるような気がする。そしてもちろん、姓名たちに許された旅行は「新婚旅行」だけではないし、なにも「一組ずつ」だけのものでもないだろう。
 パウル・クレーパウルとクレー。才能ではなく権利によって書くこと(蓮實重彦)、名前に権利がかかるなら。


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 どこにも行かなかったと言えるようになるにさえまだ時間がいるのだろう。まだ窮屈だろうか。いくつかの名前を意識ではないところが(場所が、身体が)記憶している、というのがほんとうだとしても、もう少し意識にふれなおしたいものがあるのが判ってきたようだ。

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