読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

その世から

 「貼る」でなく「張る」だと、あれほど口やかましくいんたーねっとの知らないメリッサさんモリッサさんから英才教育まがいのディシプリンをされてきた身が嘘のように、昨日の日記で、あっさり前者で書いていることも、なにか、なにかですね。リンクを貼ると言ってしかし、それはすでになにごとかを意味し出しているということに私はあまりに長く注意してこなかったのではないだろうか。


 ハルバル=バルカローレ

自ら壊した機械に「おかえり」と言える愚かさを、徹底的に意識化しないといけない。人はそれに似た愚かさで、感傷のために人を殺すのだから。
https://twitter.com/nanari/status/16078632762


はやぶさを本当に人間のように思ってしまったんだったら、それが死ぬ間際の眼差しやその死の瞬間の写真を消費することはやめるべきだという、単純なことなのだけれどね。はやぶさが本当には人間ではないと知って「おかえり」と言える感情を認めるなら、こりん星を無いと言ってはだめなんだよ。
https://twitter.com/nanari/status/16085767333


 アニメ「艦これ」の感想をぽつぽつと置いてきて、それらをここでの日記でも少しまとめておきたいと思った。今はまだ準備がとれない……けれど(アニメもまだ放映中なのだし)。もちろん途中だろうと自分の思いについてなにごとか置けそうならそこで置いていいのだけど。そういう訳で、詩人が以前はやぶさについて書いてくれたことをここでは引いておく。ここで私が思い出しているのは、艦娘たちではなくむしろ先日海底で発見されたという戦艦のニュースをめぐる反応ではある。


 「艦娘は人間ではない」という規定から「だから艦娘を人間と同じように扱うな」という命法が引き出されるとき、そこでもう一度人間化する作業に揺り戻した末にまるで「人間を人間でないように扱う」、人間には耐えられまいという場所へ「人間として」艦娘を追い込んでみせる立場、つまりひとをひととも思わない境遇(……)で扱い、それを愉しむというなんとも迂遠な(それだけに露骨な)立場をとる者はやはり、いるだろうと想像する。
 だけれども、そのような命法に開かれている世界は、けしてそれだけに尽きている筈もないだろう。こう書いてみて、すでに艦娘たちのことだけを言っているのではなくなっている。『曲矢さんのエア彼氏』で小沢そよ子があの世とこの世の狭間=「その世」という名を指定してくれたその場所を思わせるところで、たしかに人間と同じしかたではないにせよ、その者たちはその者たちなりの独自のしかたで生を続けている、とどうして感じずにいられるだろう。人間の生と同化させてはいけない、だけれども生のしかたそのものと風ほども交差する筈がないと性急に決め込んでしまっても、等しく見誤ることになると思える(そのとき見誤るのは「人間の」眼だろう)。
 人差し指でほらそこにと示しても隣の人間にすら通じないかも知れない場所であるにせよ、ただ、人差し指とその先にあるものとの間にだけは通うような、と今はまぶしさに縮んだ皮の唇で言ってみることでしか指し示せそうにない、その者たちの生へ。

機関車に解る頭はないだろう トップハム・ハット卿の憂鬱/服部恵典「春生まれは嘘がつけない」
(『羽根と根』創刊号、2014年、p.2)


 頭や手足がなくとも顔がある。顔だけの存在はもっとある。顔は特権的に見出されてきたし、これからも見出されていくだろうと思う(生物の身体的部分に切り分けずとも、ある仕草なり言葉なりでもそこになんらかの固有性を発掘されれば仕草も言葉もその者の「顔」と修辞を打たれていくだろうと、そんな水準での話だ)。ペルソナのラテン語に後に転化するギリシア語πρόσωπον,プロソポンの「顔」という意味を、そして語構造が語るところによれば「他人の眼に対してあるもの」という意味を持つことまで思い起こせば、人間の見誤りやすい眼がまさに、顔のないものたちに顔を見つけていくとも思える。それでも顔は眼に「憂鬱に」屈従しなければならないということも、ないだろう。顔は今、違う生へ向かっているところだ。

広告を非表示にする