センター

 twitterはてなダイアリーのかけもち状態になって以来、私の臆病さってやつで特にここ数年はtwitterのほうでも日記更新しました的な媚態を振るう癖が抜けなかったけど(いや悪いことじゃないんだけど)、どうやら大丈夫そうです。そうそう、日記は日記自身を更新しようねえ………薔薇! 魔術! オニギリ!!!! 薔薇! 魔術!! オニギリ!!


 ここ数日のような調子で日記についての日記を半年続けていくことは可能だろう、おそらく。それだけの蓄積もある(残念なことと思わなければいけない)。ではあるけれど、もう少し違うやり方でいこうと思うのもたしかだ。「われわれが探しているのはわれわれの生ではない。生はわれわれといっしょに探しているのである」(ジョー・ブスケ)。
 日記を書くというよりはだから、日記とともに書いていきたい、ということだろうか。


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 井雲くすが表紙を飾っているほうの艦これアンソロジーを読み始めた。
 あふれ出る・からみつく千の思いをおさえて、窮極、ある作品を通じて生きている子たちの関係を私が愛しく思う際には、同性愛者の子を好む/異性愛者の子を好む/etcといったところからはうまく出発できないと思う、そういう心の向け方はあまりしないと思う。同性間恋愛で好きなしかたはある。異性間恋愛で好きなしかたはある。それはそうなのだけど、そうではなくて、まずある特定の子のある瞬間にある親愛のさきがけを感じることから多く始まるということ(この「まず」が私の最大の差別性、つまり面食い性だと思う。この面食いが単純に身体的な「顔」に必ずしも依らないということは数日前のエントリーで書いた)。そのとき、私が愛し始めている子が、その子にとって喜ばしかったり嬉しかったり、つまり自分を肯定できる現場を支えているのが同性愛なり異性愛なり、そのほかの数えきれない情動の名づけなりであったと知ったとして、それらをその子の肯定において肯定したいと思う(……)、ということだけども、伝わっているだろうか。もちろん自分自身の性的志向/嗜好を明確に自覚できない表明しない場合だって少なくないし(作品にかぎった話ではない)、あるひとつの出会いでそれまでの経験が覆されることはつねにありうる(私もそうだ、私もいつも揺れ動いている)。
 いや長く書くつもりではないのだった。今のところ私自身はポリセクシャルの側面を多く自分に見ている、これはこののち変わるかも知れない、変わらないかも知れない。だから艦これアンソロジーの話だ。作品の評価などはまたべつになるだろうけれど、艦これアンソロジーでも男性提督と女性艦娘の組み合わせだろうがお互いが望んでいるのならそして私にとってそれが「よい絵面」と感じられたなら(私も面食いだからさ)、私はその場面に少なくとも自分の心の手首は切らないだろうと思う。だいたい、そんな場面では私にとってよい絵面かどうかなど余計なものでしかないとは言える、それはその者たちの問題だろうから。
 ひるがえって私が苦手なのは男性提督と女性艦娘の組み合わせを委縮させようとする者の力のほうだ。たとえば、ある同性愛者の子を本人がそれを望んでいないのにヘテロの作法で無理矢理躾けようとしたり笑いものにしようとするのに私は「むかつく」。それと同じく(そう、同じく)、あるヘテロの子を本人がそれを望んでいないのに同性愛の作法に無理矢理躾けようとしたり笑いものにしようとするのにも私は「むかつく」。不倫や性的転向や「快楽の教育」などにはまたべつの話が必要だろう(……)。ところで、シュルレアリストたちが出した抗議文の題名は「愛に手を出すな」だった。


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 秋雲ちゃんでっす

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