承前

  昨日「2KZ」に触れた部分、少し訂正しようかと思い、結局そのままにしておくことにした。というのは昨日のは読後の印象を記憶で書いていたからです。数週間経った今日改めて読み返すと自分が思い違いしていた部分があった。ただ、感じたことは変わらない。
 正確に呼び起こしておくなら、「座敷童子は(……)居着いた家の繁栄のために力をつくしているんだ」と見得を切ったあとで「今のは一般論だ(働いたら負け!という書き文字をバックに)」と四コマのオチを背負いこむ、ここでトラさんが自らの働かない座敷童子という造型を示す。そしてユータさんに座敷童子らしい能力をお前は希望しないのか?と問いかけると、彼は今のままで不満はないと言う、「それに俺はトラさんが座敷童子じゃなくてもいいんですよ」と言う。座敷童子を不要とするこの言葉のあとで続く会話のうちにだけれども、貧富論に依らない座敷童子の居場所、座敷童子を働かない子がやはり座敷童子であることへの感想がユータさんの気持ちごと巻き込むようにしてつむがれている、と私には聞こえたのだった。つまり「そういうのひとりじゃできないじゃないですか」、という訳で。
 思うに「誰かにとっての」という修飾のしかたでたとえばこの世の天使は増えるのだと思う。「弱虫ペダル」などはとりわけそうだ(御堂筋くんは、巻島さんは、真波くんはそれぞれ固有の「誰かにとっての天使」でありうる、というように。あるいはアレクサンドルにとってのアラゴン)。あるひとにとってはそうじゃない、フィールド全体に適用される天使はいない、だけれどもそのひとにとってかのひとはそのとき天使的である、というような。ユータさんにとっての座敷童子、というのも私にはそんな風だ。「誰もが座敷童子になりうる」というのはそういう意味で、「誰かにとっての」という修飾にそれは裏打ちされている。誰もが、であって、誰にでも座敷童子をつとめられるような者はいない……とまで広げてしまうと行き過ぎるだろう。それでも「誰もが」と「誰にでも」の差は撤廃できない。その撤廃できなさを忘れないようにしよう。
 構えが大きすぎただろうか。私にとって聞きやすい声を集めすぎたかも知れない。咽喉が乾いた。いずれにせよ前日の日記に補足しているとああ日記を書いてるなぁという気がしてくる。日記らしさなどは求めていないけれど、たしかに日記を続けることのうちには承前することの強い意味合いを手放さないことも含まれていると、やはり思い出しなおしてはいる。

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