艦これ――刺繍された挨拶(海への会話)

暁「これで一人前のレディ……」
雷「もう……みんな私に頼りすぎ……」
響「ハラショー……」
電「なのです」

 6話、カレー大会で優勝した第六駆逐隊の四人が並んで眠っているラストシーン。響が眠ったまま言う「ハラショー」に電の眠ったままの「なのです」が続く。これを、ほんとうに続いている会話なのだ、と受けとめてみることから始めよう。口さがないひとびとから「それしか言わない機械」などと嘲笑されたりもする孤島のような口癖にも引き取り手がそばにいたということの夢のような明証性なのだと、「おしゃべりは線路みたいに続く」のはつまりここではほんとうのことなのだと受けとめてみよう。「ファンタジスタドール」5話、カティアが線路沿いでみこと切った指きり、そののち眠りながらぴくぴくとまだ動いている小指、夢からほんの少しはみ出たあの小指がほんとうだったように。
 同じ回、暖簾をくぐって出てきた愛宕が「ぱんぱかぱーん!」と挨拶すると、雷たちもそっくり同じ挨拶で応じる。ぱんぱかぱーん!にぱんぱかぱーん!!で返すなんて誰が思いつくだろう。同じ艦娘の口癖を無視しないそんな子たちだからこそ、夢見たままで台詞と台詞のほかの会話との境界線など無効にするようなおしゃべりができたのだと、それくらいは想像してみる。
 口癖としての定型句を頭から嘲笑してきたひとびとは、その定型句を伝っていつしか巻き起こり出している、こんな夢のようなやりとりにも素通りするままなのだろうか。


 水たまりに向かって歩いていると、水面が向こうのなにかを映しているのが見える。緑、黄、非常階段、壁、ビルなのだと思う。水たまりに近づくほど角度はビルの真上を見せるようになる。そばを過ぎるとき水たまりに空がおりてくる。だからといって水たまりは空をおぼえたりはしない(少なくとも人間のようには)。ひとは言うだろうし、私もそう思う。ところで見ている自分というよりはるかに、まるで映像自身があるひとつのことをおぼえ出していくのを見つめているような気持ちについて、どう言ったらいいだろうか。多くの意識と作業を経てつくられたものと、見ている側との間で、しばしばそんな水たまりに出会う。
 アニメ「艦隊これくしょん -艦これ-」はこの文を書いている時点で11話まで放送されている。その11話、食堂でのこと。雷がどうやら苦手とするらしい牛乳のコップを抱え、目をつむって口元へ持っていく。と、カットが切り替わり、アルミ製だろうか黒っぽいコップから飲み干している者が雷のかわりに画面を占め、顔が見えるとそれは吹雪と判る。別々の場所、別々の者が同じひとつの仕草のシークエンスに与っているようなこの爽やかな詐術は、1話で翔鶴から赤城へと飛ばされた艦載機の場面を思い出させる(ふたりの手を映像上で介した艦載機はほどなく吹雪によって海と太陽とともに見届けられることになるだろう)。
 こんな風な映像上のやりとりは(即座に任意の場面を思い出させるという意味で)比較的見やすいものかと思う。ところで次のような場面はどうだろう。同じ11話、MI作戦の艦隊編成を伝える長門の放送の下、オレンジジュースらしいドリンクにストローで下品にぶくぶく泡を吹かせている球磨のうちに、その映像のうちに、8話の大和ラムネというかぼそい海の余韻が遠く球磨たちの食堂にまで持ち込まれているのかも知れないというような。
 これは、もちろん解釈妄想だろう。絵的な類似性だけで短絡させるにしてももっとましなしかたがあるのではないか、と叱られてしまいそうだ。だからすぐに判らなくなる。ひとにはときめきに試される時間があるのだという(小倉唯"Tinkling Smile")。問われているのはこちらのときめきで、だからすぐにもつれてしまう。

 タニベ:第1話で初めて会った吹雪に対して「なんだか地味っぽい」と言ったときはびっくりしたんですよ。ゲームではそんなことを言わなかったと思うんですけど、それはきっと目上の提督さんが話し相手だったからで、同世代の子たちにはいい意味で気を使わないタイプなんだなというのは新たな発見でした。
(『コンプティーク』4月号、角川書店、2015年、p.47)

 夕立のキャラクターボイスを担当しているタニベユミが語ってくれているように、「話している相手が違うなら態度が違うのは当たり前」*1なのであって、このことは夕立にかぎらない。ゲーム版ではたしかにほとんど提督宛てだった艦娘たちの台詞が、アニメでは同じ艦娘たちへ向けられている。そのことがなにより嬉しい。
 もとより数えきれるものではない。雨粒を数え上げることはできない。とはいえ、いくつか抜き書きしてみることならできそうだ。たとえば加賀の口癖は赤城が引き取ってくれる(7話「やりましたね、あの子たち」)。すると加賀は少し紅のさした頬で「みんな優秀な子たちですから」と、自分の口癖を遠くのひとたちに宛てて贈り直してくれる。残照に染まった六人のカットに端坐の声(井口裕香)が添っている。また、波止場へ行くことをやめた睦月に夕立はベッドの上からくふっと咽喉を鳴らす。この発声をゲーム版から検索するなら、補給時のものと判る。「おなかいっぱいっぽい」と本来は続く台詞を打ち切って、夕立の胸に膨らんだ気持ちを今は言わないとしても。9話、改になった夕立が海上をすべっていく。吹雪が陸から投げかける「おーい! おーい! おーい!」に、画面のこちらにはただ一度だけ聞こえる「ぽーい!」という夕立の返事は、『陽炎、抜錨します!』における「さあ、海の向こうの艦娘に聞こえるように叫びますよ。ぱんぱかぱーん!」*2という愛宕たちの声とたしかに響き合っている。夕立の語尾に結ばれてきた「ぽい」も、今やそれ自身の言葉の生をたどり始めている。
 あるいは金剛の声を拾ってみよう。4話、戦いが終わったあと、「ヘーイ! 私たちの活躍見てくれた? 眼を離しちゃNO!!なんだからネー!」と吹雪に笑いかける。この台詞が「私」ではなく「私たち」と書き換えられていること、なによりも提督ではなく吹雪に向かって差し出されてあることは決定的だろう。金剛型四姉妹としての破天荒な様子以上に、アニメでの金剛を思い出そうとすると吹雪の脇でサムズアップしている彼女のイメージが多く占める。金剛の声が吹雪とともに聞えてくること。提督のいない場所でも平気でラブコールめいた台詞をひとりごとのように言う(海の上で、工廠のベッドの上で)、そんな金剛の振る舞いからはむしろ、対面を必須としない語り方、圏外の語り方、つまり「今ここにいないひと」に宛てた言葉だろうと口にしたいものは口にしてよいのだという自由さを強く感じる。そしてたしかに、ひとりごとのような定型句でも画面の中では聞き届ける者がいて、そこでは言葉もまたその場その相手に応じて自らを賭していく。あの決してゆずられることがないと思われていた那珂のセンターさえ、「今回だけセンターをゆずるから!」(11話)と、吹雪そのひとを目指して飛び込んでくるほどだ。
 ゲーム版での台詞=定型句は、こうして、宛てられる思いや相手を変えていく。けっして「死語のつまったカートリッジ」ではない、生き生きと投げかけられる言葉自身の生は、制作者の無数の手や声とともに自分自身を書き換えていく。それは、公式のアニメという媒体であっても「運営の提供するゲームの論理を跨ぎこえて」*3、にぎやかに書き込まれているように思える。


 カメラの詐術はときに不穏で、曖昧だったり身も蓋もなく明瞭に見えたりする。ひとはどうか知らない。私はすぐに判らなくなる、そういうことが(……)。起床した赤城がさっきまで見ていた悪夢を思い出している。隣で寝ている加賀を見て少し微笑み、それからカーテンを開け、窓から外を眺めると、走り込みをしていた吹雪が手を振ってくるシーン(11話)。赤城も笑って手を振り返す。視点が変わり、室内からのものにカメラが移る。すると吹雪の姿はちょうど窓を支える木の枠に覆われて見えなくなってしまう。直前までやりとりしていた相手が、ほとんど瞬間的に消えてしまったように(外からの視点では聞こえていた足音が消滅することもその印象を強調する)。赤城の眼にはまた違った景色が流れただろうか。不安はこんなところからやってくるように思われる。
 「黙っていなくなっちゃダメだよ」という声(日高里菜)をここでたしかに思い出しながら、少しさかのぼって、10話ではなにがあっただろうか。学校前で夕立と別れ、睦月と吹雪がいっしょに帰っている。甘味処・間宮への誘いを断り、吹雪が走っていく。曲がり角の向こうから出てくる赤城と加賀にも立ち止まらず、挨拶のみにそのまま駆け抜けていく。「珍しい……あの子が赤城さんを見つけて、そのまま行ってしまうなんて」と加賀。その通りだ、珍しい……と思うとき、まさに吹雪という造型が作品のうちで、映像のうちで、育んできたものが感じ取られているのだろう。「曲がり角で特別な誰かとぶつかる」というあまりに古典的なクリシェが小破しているだけでは、きっとないのだろう。ここでは、もっと近くにあるクリシェ、つまり「赤城のそばへ吹雪なら近寄る筈だ」という固有の関係性をともなったクリシェもまた、小さく躱されている。その行動のクリシェこそ、「艦これ」というアニメのうちで時間をかけて育まれ、掘り当てられてきたものではないだろうか。また、赤城の視線の先、取り残された睦月。彼女は吹雪が駆け抜けていった方角ではなくむしろ、先ほどまで隣で会話していた名残りの空間へ顔を向けている。睦月の行動のクリシェ、「今ここにいないひと」への待機のかたちもまた、そんな風にしてもう一度残照に浮かび上がっている。
 辞書を開けば載っているような万人に通じるクリシェではなく、ある親密さの中で時間をかけてしずかに書き込まれてきたクリシェ。交友関係を通じて誰かの仕草がほかの者へそれとなく継承されていくこと自体は、普遍的なものではある。ただ、映像や声のうちで、映像や声自身が書き換えを前提とした仕草の継承をうながしていると錯覚するような場面について、ここまで書いてきたのだとも思う(それは錯覚だろうか)。3話、第三水雷戦隊の部屋には湯呑み茶碗を手で包む睦月、入浴後のタオルを首に巻いた夕立が映っている。お茶とお風呂、ふたつは友達(……)。吹雪という名をいつでも裏切るように、彼女のまわりにはあたたかいものが集まり出している。如月との思い出を語る睦月。その回想の絵の中にもすでに友達と入浴をともにすることやパフェを食べ合う姿は書き込まれていた。やがて友達同士のクリシェは思い出が把握する計量を越えて、三人の手を取っていくだろう。そして映像は親密なクリシェを三人のうちだけにとどめたりもしない、と試されてきたときめきの淵から書いておきたい。思い出しているのは8話のことだ。大和を思って夜、窓辺で外を見ている吹雪のたたずまいは、まるでこれまで幾度もそうしてきたであろう夕立の名残りのようで、と。それから浜辺で海をじっと見つめている大和はいつかの睦月のようで、と。それぞれの身に刻まれた仕草のいくつかがべつの生を見つけたとでも言っているようだ。そんな風に映像がささやいてくれるのはたとえば「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」、ノエルがダンゴムシをつつく仕草へのカナタの指や、リオ先輩がカナタの寝顔を守りカナタがノエルの寝顔を支える、そんな一連の行為に単なる真似ではない、誰かから誰かへ持続する仕草の固有性がときめきを誘うこと。
 アニメのオープニング、サビ前のブリッジパートで姉妹艦たちが寄り添っているカットが次々に映る。大淀や大和はその点ソロで映っているけれど、振り向いているコマも用意されている。「後ろからの足音」が大淀や大和にも聞こえたということがここでは語られているのだろう。雨の中の吹雪に傘を持って訪ねてくれるオープニングでの金剛の姿も、話数を重ねるほどに胸に積もってくる筈だ。5話、問題含みの新しい艦隊に「なんとかなるネー! 暑さ寒さも彼岸までネー!」と金剛が言う。そう、吹雪はたしかに困惑している。だけれども金剛も伝えようとしていたのだった。如月がいなくなった際に那智が廊下で姉妹にこんなことを言う、「こればかりは時間が解決してくれるのを待つしかないな」。金剛の暑さ寒さも……という台詞は、那智の気遣いから遠くないところに羽をおろしているだろう。そして10話。艤装なしに湯船に飛び込み、気が抜けたような吹雪にぶつかる睦月の向こうの壁「000:00:00」の表示が、もういいよ、の合図ではドックから出られない傷についての涙を支えている。修復バケツによってカウントを早めることができた赤城の映像がふたりのうしろで何度もドックを出ていく(これはあたたかい水の夢)。そんな風には出ていけない傷について睦月はきっと探照灯をかざそうとして、足がつくほど浅い海にびしょ濡れのまま吹雪より早くドックを去る。こんな日は、自分の痛みに麻痺してしまう日だったのかも知れない。海でも陸のようにしか走れない吹雪に、翌朝の港と夕立は伴走の期待をよみがえらせてくれる。ドックとは違うなりゆきでよみがえるものがある、新しく。
 前世。この言葉をどうしても書かなくてはいけないのだろうか。なるほど、艦娘たちは「以前」の記憶を抱えているような描写をされている。赤城の言葉を引けば「定めの頸木のようなもの」なのかも知れない。だけれども数分前の行為も今にとって前世であるとは言わないにせよ、前世をべつの海域に誘いこむこともまた、禁じられてはいないだろう。作品のうちで時間をかけて積まれてきた仕草、言葉、演出、声、映像、なによりも遠く近くに交わされてきた艦娘たちのやりとりは、それぞれが艦娘にとって身体的な生死に依らない行為の前世、一瞬ごとの前世を対抗的につくってみせてもいるのではないだろうか。親密なクリシェはこの場所で語られている。前世でされた刺繍(ネルヴァル)はたった今されたものだ。入電の手を膝にあてる。


 どこからが魔法だったのだろう。冒頭で取り上げたカレー大会の回をふたたび思い出してみる。大きなたんこぶのできた電を気遣い、響の手は彼女の頭を撫でるように置かれている。愛宕高雄が現れ、例の「ぱんぱかぱーん!」のやりとりがあり、そのあと一同をおさめたシーンで電のたんこぶは作画からすでに消えているのだった。ぱんぱかぱーん!という愛宕クリシェはいたいのいたいのとんでけー!でもあったのだと今、ほんとうに信じてみることができる。カレー大会に敗北した足柄の頭を撫でている羽黒を見出すとき、止め絵の向こうで撫でているその手の動きがけっして孤立した映像ではないということも。憧れに撫でられた吹雪はやがて、同室の机で本を読んでいる友達の頭へ同じ仕草を乗せにゆくだろう。赤城から始まったタオルうさぎをめぐって、どれほどの手が重ねられたことか。


 「空気読みなさいよ! そこの海に沈めるわよ!」とやがて大井に叱られることになる、空の上の満月(9話で浜辺を駆ける吹雪の上にもあり、そのときは満月にわずか届かなかった月だ)。誰かの空気を読まなかった天体はだけれども、ほかの誰かの上ではむしろ空気を書き込みにくるだろう。吹雪と睦月が月に照らされながらぽつぽつと会話している。そこでは提督が見た吹雪の夢が、いつの間にか吹雪自身の願いの意味がこもった夢へとすり変わってしまう。ふたつの意味の「夢」、この伝統的なクリシェでさえ取り違えて語ることが許されるふたりとひとり/ひとりの海への会話に、もう言葉は不要だろう。

*1:http://ichigocage.hateblo.jp/entry/2015/02/12/223805 参照

*2:築地俊彦艦隊これくしょん -艦これ- 陽炎、抜錨します!』、エンターブレイン、2013年、p.140

*3:七里・長岡司英「ゲームのエンディング、ゲームとのエンゲージング」、『漢江鎮守府 落陽白書』、2014年、p.134

広告を非表示にする