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 『文学と悪』のジュネの項でサルトルを引きながら、わたしたちが悪を目指すのはそれが善だと見なされているかぎりのことだ、とバタイユが書いていたと思う。これ自体は明瞭な話で、たとえば「正しさ」に置き換えて考えてみればいい。なにか、「正しさなるもの」「正しいということ」を厭うて(その理由を今は問わない)、正しさから身を背けようとすると、しかしではそれがあなたにとっての正しいということだろう?なんて問い返されたりする。なんであれ正しさの側へは行かないことを選ぶこと、それがあなたにとっての正しさではないか、なんて。
 善としての悪、正しさとしての正しくなさ、という風に問い返されるとき、そこで善や正しさは積極的な価値を訴える言葉としてあらためて聞き届けられているようだ。善や正しさはそこで、悪や不正などの非対称かつ相補的な語との繋がりから離れて、ひとにとってどんな方向であれなにごとか価値あるもの、絶対的によいもの、ポジティブなものとして聞き届けられているように思われる。そして、だからこそ先のような問い返しのレトリックが成り立つ余地もあるのだろう。文法の慣習で丸め込まれているとも思えるし(慣習をともにしているからこそ意味のずらしに介入できるとも言える)、問い返されるときに現れる二度目の善や正しさの位置にはほんとうは違った語が引かれるべきだと感じるひとの思いも想像できる。
 「として」、この修辞がつねに問題になるのだと感じている……。良くも悪くもと言うのでなしに、その良さや悪さの基準ごと編成しなおすのが「として」という修辞の問題だと感じている。「そうではないもの」を巻き添えにするのが「として」という修辞の一張羅だと感じるからだ。ジャン=リュック・ナンシーが「として」に振る傍点を思い起こさずとも足音高く出ていくあれは、瞬間の王妃? いや、これは瞬間の即位(短歌が「として」を介して汲み上げてきた抒情の高度をいつか語法の大地からたしかめてみる必要がある)。善としての悪、正しさとしての正しくなさ。文法的に正しい政治ですね、という訳だ。ここから「だから善を言おうが悪を言おうが同じだ」「正しくなさも正しさも同じだ」「あれもこれも同じだ」という車両を口に滑らせていくひとも、もしかしているのだろうか。私はここまでなにを書いてきたのだろう。見かけの濫用のうちでときに侮られる、としても「として」、には違う車両が滑る道がある筈だと。違って、そうではまったくなくて、それどころか、と。

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