スピノザ『エチカ』上・下、『国家論』。ううん、元ネタの嵐。「真の観念はその対象と一致しなければならぬ」(第一部・公理六)、究極のシニフィアンとしての神、どっかで聞きました。神は目的を持たないし意志も感情もない。仮にあるとしても神のそれと人間のそれとは、星座の犬と動物の犬くらい違う、ていうたとえは有名らしいけど私なんかは初めて聞いたよ(第一部・定理一七・備考)。卑近に言えば擬人化やめろ(肉じゃがはやめません)って話で、ここから悲劇の条件とか理不尽さに接ぎ木されるのはなるほどという。いや、キャッチフレーズ抜き出してるだけなのでこの日記はぜんぜんなにも言ってません。どこに線を引くかで個物の単位は可変的(ゆえに個物間の原因-結果の単位も無数ということだろう)、というあたりで「透明な巨人」(ブルトン)の足音を聞く思いはしました。『スピノザの世界』(上野修)のあとだと、柄谷行人スピノザのどこを強調してどこを無視(というか、省いたというか)したのかがそれとなく伝わった。あと『国家論』は未完なんだけど最後の節がこう、というのはやっぱり。本人はミソジニーとも思ってないで書いてるんだと思う。こういうの。


 で。上野修スピノザ本で検索したら感想を書いてある日記があった。少し調べてみるとご本人自身スピノザ本を出しているひとみたいで。コメント欄ではその日記の書き手の方が歴史的仮名遣いを採っておられたんだけど、匿名のコメントで

 「ゐます」や「せう」といった難解な言葉遣いを使うことで、自分を大きく見せようとしてるのが人として見苦しいな。

 てのがついてて、ああこんなところで。とか思った。やや微妙な問題かとは思うけど(日記自体は現代仮名遣いなので、その使い分けへの当惑と、自分に馴染みない文体をあえて採ることでこの相手はこっちを威嚇してるんじゃないか、みたいな邪推が匿名者に働いたのではとか。すると今度は、仮名遣いの使い分けの問題に相変わらず引き戻される……)。日記の書き手の説明では、メールや手紙は歴史的仮名遣いで行っているのだそうで、私的な文のほうを歴史的仮名遣いで書くひとは珍しい気がした。

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