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エクフラシスが敬愛を敬愛する

気散じ

 「描写」のぼんやりとした広さに気後れしつつ、しばらく前に知ったエクフラシスという修辞に思いをよせていた。といって、この修辞について知ることは少ない。ギリシアの修辞学を通して展開した言葉の技法であること。ホメロスが『イーリアス』でアキレスの盾を語るしかたにエクフラシスの特徴が代表されていること。目の前の対象を生き生きと言葉で語る、つまり「描写」の意義を担っていったらしい修辞であること。

 ネット上で確認できるこれらのpdf論文をいくつか、日本美学研究所のエクフラシスの項(http://bigakukenkyujo.jp/blog-category-4.html)などを拾い読みして、それらのことが確認できた。いかにも論じられていそうだとあたりをつけて読み返した『旧修辞学』でも軽く触れられている程度で、「ekphrasisは一つの弁論から他の弁論に移すこともできる詞華集的な断章で、規則にのっとった、場所や人物の描写である(中世のトポスの起源)」*1とはある。
 詞華集的な断章、というバルトの説明から、エクフラシスと紋切型・定型句との関連が想像される。実際はどういうものだったのかは知らない。ただ、細かに切り分けられた人物への描写、「花のように匂い立つ髪」だとか「白魚のようにきれいな手」だとか、そういった定型句になるまで愛用されたエクフラシスの部分というのがあったのではと思う。根拠のない想像だけれど、たぶん人気のあるエクフラシスの定型というものがあって、そこからこれこれを描写するときはしかじかのエクフラシスを借りることが推奨されたりしたのではないだろうか。修辞のストック、とくにエクフラシスの辞典のようなものも、きっとどこかにはあるのだろうと思う。


 エクフラシスの語義を仮に「言葉によって対象を描写すること」と最大限広く取ったとして、今度はどこまでが描写なのか、なにが描写とそうでないものを分けるのか……といった問題が出てきそうでこれは私にはほとんど手に負えない。描写のない小説を想像することがまずむつかしいし、友達同士の会話文などもどうなのだろうと思う。建物や人物の容姿を細かに閲していくエクフラシスではないだろうにしても、会話は友達同士の関係や交歓の気持ちやといった言い難いもの、建物や人物といった個物を前提するのとは違うもの、語りのたびに流動していくようなあるものに向けての描写として編成されていったりもするのかも知れない……と言ってしまえばエクフラシスの意味を恣意的に曲解していることになるだろうか。
 また漫画の出会いのシーンなどで、主人公が心内で相手の容姿について語るとき、コマ割りの中でそれに対応するように相手の部位がクローズアップして描きこまれる場面なんてどうなのだろう。主人公がエクフラシスしている相手が実体そのものとして同時に画面にすでにある訳だから……というだけでなく、仮にそこで語られる言葉がなくとも、コマ割りによるクローズアップはもはや「絵でなされたエクフラシス」のようでもあると、そう感じるのは奇妙なことだろうか。たしかに漫画の話にエクフラシスを持ち込むのは不当だと思いつつ、つまりそれくらい私の頭はとっちらかってしまう。
 描写というのは、そういう意味で私の手に負えない。小説論に通じているひとからはそんなところであたふたして、と笑われてしまうかも知れない。


 そういう訳でエクフラシスの採用モデルをどう絞るのかさえ、すでに私に苦労だけれど、ひとまず自分に親しいと言えるのは髪はどうで服の印象はどうで足はどうで……というような人物語りとか*2、古城や森の紹介へ向けた熱意(ドイツロマン派やグラックの語り口が思い出される)ではある。熱意、読む側にはしばしば退屈な熱意というか。
 最近読んだものだと、『アクマノツマ』(石川博品)の入浴シーン。主人公の和真とお風呂をともにする悪魔の妻たる萩子、湯船に浸かりながら和真が萩子の身体を言葉に綴っていくとき、そのエクフラシスはほとんど愛撫同然でもある。エクフラシスはそこでむしろ和真の側のどきどきする気持ちの起伏を積んで段落をゆく。愛する者だけを見つめている場面では、描写する側こそ描写されている側なのだと、身も蓋もないしかたで教えてくれるようだ*3。特異な例として忘れがたいのは、入沢康夫の詩集『わが出雲・わが鎮魂』だろうか。「そうだ 出雲は 三つの顔を持つた巨大な生き物だつた」から始まる危険な土地へのエクフラシスは、鏡文字にした上に行自体の上下を反転させており、手鏡をページの上に立てて読むことが詩人によって推奨さえされていた。

 近年には、いつ見てもますます蒼白いその顔立ちの美しさが、何だか宿命的とも言えそうな性格を帯びて来た。二つの丸いふくらみに分かれた額の硬い線がふわりとした金髪の中に消え、その髪がまた軽やかな薄絹のようで、風が戯れるとさらさらした巻毛の一つ一つが伸びひろがるほどだ――思弁という、常に精神力を消耗する探究に従事している顔にときたま見られる、きわめて珍しい性格である。鼻は細くまっすぐで、天鵞絨(ビロード)めいたつや消しの物質で出来ていて、鼻孔はよく動き、極度にすぼまるときもある。目には天性の罠がひそみ、その軸が厳密には並行しないように出来ているところが人を惹きつけるのだが、その目は(……)
 (ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』、安藤元雄訳、岩波書店、2014年、p.17)

 こうしてグラックのエクフラシスを見ると、ほとんど対象への賛辞と切り離せないように思われる。恋愛のディスクールではないけれど、思うに、敬愛のエクフラシスというものを見つけることはできそうだ。ひとであれものであれ、好きすぎて一片だって語り落としたくない、というときはある。好きすぎてひとつまみだって書き落とせない。そんな看過できなさにとらわれるとき、「だからなにも語らずにおこう」(節度と強度の間で星座が見つけ出せるまでは)という沈黙質の誓いが立てられる一方、「こうして書いていけばきりがないけれど」というエクフラシスの誘いもあるように思う。


 ここまでエクフラシスの語義を曲解してきたのだから、最後、「描写の用をなさないエクフラシス」なんて胡乱なもののところまで行けるだろうか。描写という用事を忘れて家出したエクフラシス。好きである気持ちを数え上げる指の動きに差し替えて、そのままどっかに行ってしまったエクフラシス。あるひとつの対象に向けての語り、という前提を外れたところで、敬愛する動きだけは忘れられずにいるエクフラシス、なんてものが。
 なにをしてるのって? ああ、指を折ってみているところです。たとえば、私の好きなものにひとつひとつ指を折っていく。すると、いつかそれは予め限定された物量の退屈な測定ではなく、かえって指に誘われた気持ちの知らない旅になっている。モモの「おまじない」や、しめじの「頼りにならないなぁ」、コクシネルの「ぶっ飛んでしまう」や……ううん、とても数えきれない、ということは数え始めてみることで判る。その数えきれなさは自分などを越えてすごいところへ行く(そちらはどこですか)。
 たぶん、ばくぜんと好きなものを数え上げていくことは、全体を予期した上で部分に点呼をかけていくのとは違う、歩むごとに全体が揺れ動くようなそんな歩みに向かうと思う。そんな盲目性のエクフラシスというのをまだ、考えてみたい。

*1:ロラン・バルト『旧修辞学』、沢崎浩平訳、みすず書房、1979年、p.39

*2:人物の容姿を描写する際、「身体の上から下へ」かけて順序立ててエクフラシスを行うことがあるひとびとによって推奨されたりもしていたという。本文内で挙げた「ポスト・ビザンツ期の人物のエクフラシス」参照

*3:「僕が松澤小巻に恋をする瞬間というのは田村くんがいきなり詩人みたいになってしまうときで,(……)語られた彼女の造作のためではなく田村くんがそんな突拍子もない描写をしたくなってしまったこと自体によって,僕にとっても松澤小巻はたいへんどきどきする」という一節を思い出していた。http://web.archive.org/web/20070326174706/http://storybook.jp/note/?d=2006-03&m=month#/note/note060306b.htm

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