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バニラとバーニア、ヴィニエイラのけんけんぱ

 なにが期待されてあるのだろうか。飲み込み顔で両手を「ぱんっ ぱんっ」と叩いて左右を見回してみても、どこからともなく執事や忍者が出てきたりはしないということをひとは知っている(平方イコルスン「叱られる」)。だとしても、そのために手が動いたことは忘れられない……。
 いや、ほんとうになにを期待しているのだろう? ガードレールの上をよちよち歩いてみたり、白線の上を踏み外さないで歩いてみたり。なにかを期待してする、というよりもさらに手前にいられないものだろうか。期待はすでに同伴者であって、期待に染め上げられながらしかも、べつの期待に染まったっていいと頷いてもいる「抒情的行動」を思い出せないだろうか。切符の小さな面で身体の汗を拭うという仕草に取り立てて重い意味が被せられてはいなくとも、「切符で汗を切る」とあらためて書きつける局面では、また違うことが言われなくてはならない筈だった。見知らぬ建物に入っては自分自身を求め探したというフィリップ・スーポーの挿話の蔭で休んでいると、とくにそうだ。「こちらにスーポーさんはいらっしゃいますか?」とスーポーは今も訊きに歩いている。


 林檎が自分の頭の上に落ちてきたとき初めてそれは私にとっての事件になるのです、と誰かが言っていたことを『時間と自己』(木村敏)における「もの/こと」の議論とともに思い返しながら、たとえば「なにが抒情なのか」に対して「誰に抒情なのか」とここで言ってみることができる。いつ、どこで、誰に、なにが抒情する?と荻原裕幸の語法で言い直してみることはできる。そして万人に無時間的に通用する抒情などないという前提を受け入れるとして、「あなたに抒情する」ものが「私には抒情しない」という当然の経験をなおさらに受け入れるとして、それでいて忘れられない気持ちが残るとしたら「ほかでもない私に抒情しないものが、ほかでもないあなたに抒情している」ということの通約不可能性が甘い困惑より以上のものをもたらしてくれることがある、という場所で手を落としている悪魔。その肩よりもいっそう深く落ちた背中に気づくことが。
 まばたきは自然なことだ。その自然さにふと逆らったとき、見えるもののおはなしがあった。「目を閉じるはずの瞬間に目を開けていたとき、この小さな龍は現れます」。たぶん大事なのは、本やなにかに書かれたおまじないではなくて、その子がひとりでいるときに出会った不思議があるということだったろう。それはまずほかの誰かにではなく、その子において経験されたことなのだった。その後のことは、ほかのこととして。
 いったい、ひとに伝わるかどうか判らない。それがたしかに、抒情固有の賭け金なのだろう。歩きと変わらないスピードで補助輪つき自転車に乗っているべつの子は、真っ暗な夜、ガスマスクとうどまんじゅうを男の子に差し出している。それは勧誘だった。「第一話」という抒情と、第一話の終わりに流れ出す「主題歌」という抒情との間で、声の子の星宮ケイトすら、世界征服への誘いの輝きすら、いつ、どこで、誰に抒情するのか、はっきりと決められる者などいない(――でも、ガラクーチカに訊いてみたら?)。

「空耳」にすこし長めのルビをふる「しろじにしろのみずたまもよう」
(五島諭「ヒエラルキー」、『緑の祠』、書肆侃侃房、2013年、p.104)

 ルビをふるという、おそらくこの片目だけ物語知らずの「抒情的行動」を、歌集に埋め込まれてある兵士の問題系や、上句・下句で二度書かれる言いさしから伝わる解凍された雲のような高揚感を措いてここで引く。
 中尾太一のように「ふ(狂)」とルビをふりこむことはできない。「空耳(しろじにしろのみずたまもよう)」とルビを付し終えて後続の余白でさらになにごとかを歌いこみつつ印刷へゆだねることもこの歌はしない(もしそうされていたならルビの機能的了解によって真っ先に読まれていたかも知れないものを。初めに目撃されるべきだった言葉が下句に追い込まれる転倒自体はむしろ凡庸な「事件」だろうにせよ)。
 ルビをふるという抒情的行動への指示なり過程なりを差し出したまま浮いてあるこの歌はただ、意味的な再帰についての思案よりもはるかに「しろじにしろの」という結句の手前でいつまでも巡回しているように「私に」伝えてくることを、する。「しろじ」にはすぐあとの「しろ」が当たり前に先取りされていて、これをさえ空耳などと呼べるだろうか?といつまでも聞こえてくる問いが私に、今、ここで、抒情するとしても、歌集に則して何首か選ぶとなればこの歌は採らないだろうとも思いながら。
 紙の上の抒情的行動があった。それをいくつも集め返しには行かないけれども、川に刺さった杭に漂着物が絡みつくようにして気持ちが寄っているのを感じる。

とても高い塀に面して、一本だけ佇っている桜は満開でした。
それはまっしろでした。
桜がまっしろだったのではなく、
「とても高い塀に面して、一本だけ佇っている桜は満開でした。」の
「と」から「た」までが、まっしろでした。
まっしろは、とても高い塀よりもなお高く
伸びてさかり、はりめぐりました。
(大崎清夏「私たちは、流れるを、川と呼ぶ。」、『地面』、アナグマ社、2010年、p.25)

 愚直に受け取ってみれば、この詩行にもまっしろでないものが残る。いいや、鉤括弧で囲われた部分の最後、「。」、これだけはまっしろから逃れるのではないだろうか。あるものを消すとき、それでも「消した」という行為自体は消えない、そんな古いレトリックを借りるなら……だけれど。そこで句点は、誰よりも高く広がるまっしろのありかをかすかに伝える硬い合図になる筈だ。抒情的行動の行われた小さな印、「。」のようなものを林檎と取り違える日には、いま忘れてあることを違うしかたで思い出すことになるだろう。

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