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千年も上の空の土地

気散じ

サンクチュアリ

サンクチュアリ

 水を浴びることと泥を浴びることと、後者なら泥の色の蛍をつかむことと蛍の匂いの泥をつかむことと、前者なら水を飲むことと水を飲まれることとの、そうした経験の区分けがたしかにもうかき乱されてくるところにいたってさえ、本にまだ閉じずにおけるこの詩集の中。たとえば語の眺めからは「足指」「脚指」「腕肘」といった、足と指・腕や肘とはけして書かれなかった、近接した地帯として身体の名ふたつを釘づけのうちにまとめる語は硬質の響きに反してそれを一点に見つめることはどこまでもぼやけていくと。また、文法の眺めからは接続助詞や連用中止法で幾度も行が終わる、その曖昧なcoup de graceの記憶を思い出そうとするような句点の前、視線が濁りながら透けていくような身体は詩集を読んでいくときの感覚となって引き伸ばされていくようだ。

僕は頭をたれ、あたらしく生きたはずの世界
を古書のなかに見つけ、古くなった僕のいの
ちは、あの人に見つけられ、ヤコブの純粋な
残酷さを、愛せるように、愛されるように僕
はイサクになる。
(p.35-36)*1

まるくなる、胎児のように
眼を閉ざしたまま。
私たちは閉ざされたまま。
(p.62)

糸撚りの伝説を戸惑って誰かに
渡されてから映らない肉体を譲り受けたのは
夜が明けてから
(p.74-75)

 見つけること見つけられること、愛せること愛されること、閉ざすこと閉ざされること。相補と齟齬の間で、使い手と受け手の間で、ある局面に動詞が振り下ろされる、ただしそれを可能にするのは振り下ろしの瞬間に「この動詞はああでもあった……この動詞を私はこう使うがああも使われえた……振り下ろされるのは今度は私の番だ」という思いにきっと巣食われながらのこと、に思えた。「渡される」にはすぐに「譲り受け」るが顔を出す。ふたつの語をその身に抱えるひとつのカテゴリーとしての贈与がここで参加させられているのが「批評会」なのか「祝日の広場」なのかは知らない。
 「徐々にうるみながら伸び広がる野が燃えつきるまで、千年も待って、千年も過ぎて」(p.86)。千年の所有権が叩かれていく。それが手とは誰も思えないほどになってもまだ手であることをやめないような、「手の外の手仕事」(松本邦吉)によってきっと、叩かれてある。

淡い様式に、きっと
見られている景色は濡れないよう
眸の深部から舌を、引き攣られていたのだから。
(p.43)

選ばれる時報のなかで
明日をかたちづくる変遷だけが、ぼくを
夜の世界から掬われてゆく
(p.86)

違和と同化を繰り返し、眸を
閉じられたひとつの表情が浮かびあがる、輪郭を失いながら
(p.94)

 詩の連なりを読んでいくことが「きもちいい」のか「きもちわるい」のかもう知らない、それはもうどうでもいいよというところまでいって、せめて放心の快楽は、というそれもよくある心の構えをだけれども許しもしない綴りの中で、この詩集に多く呼ばれてある受動態にやはり、決定的にねじこまれる思いがあった。目的語を立てながら動詞としては受け身であるとき、なにか、差し伸ばした手の軌跡へ死角という語のコノテーションよりはるかに穏やかな波風を立てながら動詞は裏向きに反っていったのではないだろうか。安川奈緒が栞で注意を促してある撞着語法の数々(「甘い泥土」「赤い闇」)とはべつの面から、これらは聞かれるのかも、骨格に埋められた柔らかい壁のような受動態は、対立の快をそのまま継承するのではないかも知れないにせよ一個の全景として把握されることを拒む先端の一陣は、まるで動かそうとした身体とはべつの思いがけない身体が無数に動いてしまう文は、聞かれるのかも知れない。

青空に影が落ちていった、君が感染するミーム
なくしていた名前を、見つけては零れ落として。
(p.90)

 涙腺の外の泣き方を読み手に思い出させようとする甘い韻律その声の多くをここまで書き落としてきた、そしてもう書き落としたままにする。として、ただこの一節、「零れ落ちて」でも「零し落として」でもなくまるで、一度目の誰も傷つけない落下という現象を主体の責において傷として大事に拾い上げるような二度目が、相補と齟齬の間で、見つめ手と見つめられ手の間で、複合の姿を今はとっておきたかったような瞬間がこうして。

*1:八柳李花サンクチュアリ』、思潮社、2011年。以下ページ数を付された引用はすべて同書のもの。

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