寒い海上で

 星に願いを投稿したいとはもう思えなくなったとしても、「星に願いを」と書きつける誰かの手の運行には素通りできない気持ちが死なずにある。星そのものに願いとなって投げ込んでいかれたい気持ちがもう死滅したように感じられていて、そんなとき、どこか遠くの星国(ハモニカ?)から「星に願いを」という一節を引用する誰かの抒情的行為には振り向いてしまいそうだ、と。たとえば直接の引きではなく孫引きすることへの欲情をそんなしかたで思い出す。孫引きがその偉大をもってこちらに迫ってくるのは、つまりそんなだからだ……。それそのものには興味がなくてもそれを引用するあなたの手の運行は信じられる、あなたが引用するときだけそれは私に削れるほど近い生に感じられる、というたしかに愚かしいのかも知れない空への推進、でもそれなしではやっていけない推進とともにあるからだ。
 ある韻律が既存の韻律に似てるから悪いだの似てるから良いだの言うことは初めから生の問題なのではなかった(「ほら、あの星があの星をかすめていく!」)。空を誰も見ていないうちに落ちていく星、その星を見つけそこねた寒い海上の見張り番が差し出されて受け取るなにか温かい湯気の立つものに影を落としながらもうひとつの空を落ちていく星、そしてその後を過去へ向かって追ってゆく無数の星の痕で「ぼこんぼこん」になった咽喉と肺とを自分のように無言で指し示すのは、きっと幾人もの歌人だったと思うから、その「ぼこんぼこん」の咽喉と肺とのプラネタリウムの中で星座的布置、ってあまり懐かしい言葉も彫り込まれてあるのではないだろうか。
 寒い海上の見張り番になるために、つまり歌をぶるぶるとする手で書くときに私情がどうしても要ると判るのは、私情が、私には要るのだと判るのは、そのような「ぼこんぼこん」の暗がりに自分も突き落とされてあると認めた、その瞬間ではないだろうかとも思っていた。……夜の病室の窓は玄関だった。そこを男の子ふたりが出ていく(これは私の私情をもって思い起こしている)。「エルナト」と「みなと」。誰も知らない、ふたりで探る星座的布置は、速度と高低を声のように変えてする追いかけっこという古い韻律は、また違う場所へ行くだろうにせよ。

ねむたいと言ってわたしは目を閉じるわたしが泉そのものになる/坂井ユリ「花冷え」


山の方の鉄塔に焦点が合う ぼくはいたって落ち着いている/阿波野巧也「寿司以後の color space」


晴れるでしょうあなたがいつか来るまえに焼けてしまった観光地さえ/佐々木朔「湖辺で」


ほらこれが陽ざしだよって言いながら光るほこりをぼうっと見てた/上本彩加「箱のひとつ」


えーきゅーにあたしのことをあいしてゆ?あいしてゆ?あいしてゆ?あいしてゆ?/服部恵典「十種の愛、九本のY染色体、八人の女、七色のドロップス、六組の異性愛、五つの声、四つの季節、三輪の花、二頭の獣、一つの大災害」


腕をかくす服ばかり着てとことはの雪を耕しゐるごとき日々/七戸雅人「Phobis Phobia Phobia」


たのしいはさみしい 風に降らされて落ちて踏まれてゆく花びらは/佐伯紺「兆し」*1

 『羽根と根』3号を読んでいた。とくにここではロジェ・ラポルトがいつかそんな言葉を贈り、また贈られたように、「夜を徹して」その韻律を見張ってみたい気持ち、にさせてくれる歌ばかり好んで選ぼうとした。手持ちの時間がなく、少し急いで書いてしまうことになる……悲しい。
 七音の半身となって二度出てくる「わたし」が、二度目のほうがより腕の広げ方のゆるやかであるように伝わるのは、そこで三句と四句の境、上句と下句の境という形式的な「絶句」を読み手が歌に投入するからなのだろう。眼の韻律は次の言葉をなぞりつつ、気持ちの肺はそのための息をまだ手放さない、という引き裂かれが二度目の「わたし」、その気持ちの上での言葉の再生時間を頭の側へと繰り伸ばしているのだろう。
 どうしても愛することをやめられない「滞空時間長き生きもの」(飯田有子)、つまり上句と下句の境に住む生き物の死ななさはだけれども、ふいに出来た細く硬い足場になることもあった。「鉄塔に焦/点が合う」、鋲つきの鉄板の上をステップすることを誘う音の推移が的確で、的確なその推移にいまほんとうにちゃんと自分は読んだのだろうか……と来た道を振り返るために立ち止まることと、上句の終点が現象として一致していることに気づくのに遅れる。その遅れを読み手として自覚する時間の幅がそのまま歌の「絶句」と表情として重なるのを感じる。
 「晴れるでしょう」にべつの記憶をつつかれつつ……、「文意」という身も蓋もない語の権威をとりあえず保たせてやるためだ、とでも言うかのように結句にくくりつけられた実のつまった意味のゴンドラ=「観光地さえ」を繋留していく言葉。だけれども初句から結句へ進むたびに時制という制度をこすっていく、きしませの音をあげさせていくその語法には、これから何度もさわりにいきたく思う。
 ほらこれが……の歌、うまく言葉が浮かばないままこの歌についてあらためて見つめていると、ほこりが声を発する=光る主格そのものだったのではないかと突然思った。私は最初こう読んでいた、「ほらこれが陽ざしだよって言いながら」の主格と、それ以下の行為を担っている者はべつべつなのだと。だから上句と下句とで手足の違う局面をなだらかな斜面に腰かける韻律から聞いていた……(おそらくこれは私のように読むほうが少ない気がする)。「光るほこりをぼうっと」、優しい陥穽。
 一首としての私の好みでは「もうなにもわからないまま少女らは三十七分間のくちづけ」を同じ連作から採りたい気持ちを措いて、この歌の、とりわけ下句、なおとりわけ結句を気にするなら、「あいしてゆ?」から疑問符を切断する作業が可能であるのはただ七音・七音の音数律を冷徹にここへ投入するときだけなのだろう。「七音・七音と決まっているのだから七音・七音です」の、愚直なまでの融通のきかなさ……をもって、「あいしてゆ?」は「あいして」に型抜きされていった。声を殺して眼だけで追うならば、問いかけを実装する最後の一音は、紙の上という「その場」に定着しながら「この場」からはいないものになっていった。
 軽く気泡が抜けていくような「とことはの」が好きだ、と投げ出すように言ってしまっていいだろうか。そして漢字と平仮名の風景に、いっそ図像的に心が晴れることがある……、もしかすれば大変に厳しい局面がこの歌に書きつけられてあるのかも知れない、と思う、思いながら「とことはの」に心休まるのもののありかを感じてもいた。「雪」に意味がかかる前に、「とことはの」は場所を持たない歌として流れている。pinpointの歌としてたぶん、眼に流れている。
 使役で受け身(「降らされて」)、また受け身(「踏まれてゆく」)の動詞に挟まれるほど「落ちて」にぎりぎりの営為、花びらの側からの営為を思ってしまいそうだ。「落ちて踏まれて」と音数増加の快楽を動詞連鎖の軸上に受け止めるほど、「落ちて」と「踏まれて」をひとつなぎの未来への過程に還元させない、ぎりぎりの営為、花びらの側からの営為を思ってしまいそうだ。ここで少し後ずさりすると「たのしいは/さみしい」と二句の途上が割れて、そこから剥がれ出してあったのは花びらではなく、風という語のほうだった。

*1:『羽根と根』3号、2015年、p.12、p.21、p.35、p.45、p.56、p.69、p.78。

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