「他者」について(引用)

 実際、「他者」は、ほとんどの場合、弱者や被差別者や被排除者一般を総括する用語として使われています。「他者」という用語を書いたり読んだりする人の多くは、ほとんどの場合、善人としてだけ思い描き、悪人として思い描くことはありません。ですから、例えば、「他者を無視する」ことは、場合によっては善い場合もあるはずなのに、自動的に無条件に悪いこととして語られています。「他者」は、実質的には「善なる他者」として道徳的に使用されているのです。(……)言いかえると、他者は、一方では、受肉した神や堕ちた天使のごとくに捉えられ、他方では、人間を創造し維持する神のごとくに捉えられているのです。このように、現代思想の一面を形成してきた他者論は、いちじるしく道徳的で宗教的なものです。
小泉義之ドゥルーズと狂気』、河出書房新社、2014年、p.52-53)

 いずれにせよ、私は審問主義者たちが「他者」という言葉を弄ぶことをあまり嬉しく思わない。
 一つには、彼らが「他者」という言葉を口にするのは、ほとんどつねに誰かを弾劾するコンテクストの中でだからである。(「他者に対して開かれていない」「他者の声に耳を傾けていない」「他者が見えていない」などなど。)
 (……)
 彼らの立場を危うくしない人、彼らの意見に反対しない人、彼らのふるう暴力に大義名分を与えてくれる人、そういう人だけが「他者」認定されるとしたら、そんなものを「他者」と呼んでいいのだろうか?(私だったら「身内」と呼ぶけど。)
内田樹「正義と慈愛」、『ためらいの倫理学』、冬弓舎、2001年、p.168-169)

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