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size of days

気散じ

 なないろwater'sが消え、やさすいが消え、この街の電線より低いコンビニの棚はどうもいろはすに占められていくようだけど?ということだった。
 紙パックのジュース、ペットボトルの水などを飲んだあとで(だって咽喉が乾くから)、ラベルに書いてある原材料を読む。それも空になった容器を机のそばに置きっぱなしにして何度も読み返したりする(だって……なんだろう)。読もうとしてくるくる容器を回してみる。原材料とともに保存方法、製造場所、ちょっとしたキャッチコピーなんかも書かれていて、こんな狭い空間に「たくさん」は書けないから、ということだろうか。いろいろと切り詰めた書き方にならざるを得なくて、そんな欄内のエコノミーをひとはだいぶ昔から文体目録のうちに数え始めてもいる。マニュアル文とか定型文とか。ところでブラックサンダーというお菓子があるけれど、それの原材料一覧というのを私は見たことがある。「植物油脂、小麦粉、脱脂粉乳、……」、そして「……、卵殻カルシウム、香料、(原材料の一部に大豆を含む)」。このパーレンは欄内で先に一度使われていたものだ。「甘味料(ソルビトール)」、つまり二度目のパーレンは違う機能を期待されてある訳だ。酷使だ。
 「しばらくそのままでおまちください」と郵便局のATMに流れる文字に「くそ」を見出しながら、「くそ」から始まるおそらくひとを困らせるだろう言い回しをATMの表示画面上にアナグラムしながら、思っているべきだった。そっけないマニュアル文でさえ、いや、むしろマニュアル文にこそむしろ強く露出してしまうようでもある「日本語が苦しんでいる」は、つまりそこで言葉の配備に滞った者がひとりはいたのではないかと、少なくともその「最初のひとり」はいた筈ではないかという信憑の行き先はそして、ほんの束の間でも悩みとともに着手したのだろう誰かの痕跡は、たかだかお菓子の原材料表記のパーレンひとつにも聞き取れるのではないかと。
 ひとが文を書く。ひとつの句点をつけ、次の文に移るとき、今度は前の文とは違う語尾をつけなければならないと、「繰り返してはいけない」という抑圧の風に足をとられているのだとしたら、ひとはやはりそこで「日本語を苦しんでいる、いや、日本語で苦しんでいる」(藤井貞和)のだろう。日本語が苦しんでいるように。

湖とみづうみふかき底にしてその水通ふと言ふはかなしき/真鍋美恵子*1

 悲しいのは、二度目に登場する湖が「みづうみ」と平仮名へ開かれることを許した手のほうだろう、開かれた湖がもうひとつの湖と対置させられてあることだろうと、おかしいだろうか、歌を聞き取るより速く自分の胸にそんな思いが飲み込まれていった。「湖と湖」とはけして書かれなかったこの差し向かい……。歌の上での漢字と平仮名との表記分けはだけれども、韻律の肺活量へもどうしたって跳ね返らずにはいない。肺でするのではない肺活量の話だ、眼から取り込む酸素の話だ。平仮名のみで表記された一首がまぶしすぎて先が見えない道を汲んでくるように、字数と音数が一致する「みづうみふかき」の二句は読み下しの難をあらかじめ除去するように照らされていながら意味上は暗さの側へ降りていく。字数の長い午後となった二句を、初句の「湖と」が湖上の木の影となって覗き込んでいるようなここで、日本語は苦しんでいながら韻律は睦ましく和んでいるように聞こえる。
 字数と字数の、それぞれの最も長い午後が入れ替わりながら、けして苦しいだけではない季節が一日のサイズのうちにめぐる音数があることも今は知ってある。書いてみたい、それはこんな顔をしていた=「水につばき椿にみづのうすあかり死にたくあらばかかるゆふぐれ」(松平修文)*2。探し物を犬の鼻先にもっていくように暦に嗅がせるのではない季節の話だ、牛乳パックをこぼした始末に尽きるだけのものではない一日の話だ。

*1:真鍋美恵子「みづうみ」(『羊歯は萌えゐん』)『真鍋美恵子全歌集』、沖積舎、1983年、p.258

*2:松平修文「極楽」(『水村』)、『松平修文歌集』、砂子屋書房、2011年、p.43

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