耳をふさいでも眠っても

 長野は今夜の天気予報によると「所により曇り」らしい(何故長野かと訊かないで欲しい。私にも判らないので)。それを示すアイコンが表示されている。曇りマークの右上にかぶさるようにお月さまマークが乗っている。雲の記号と月の記号がいっしょくたになってて、これはひとつのかわいいだと思った。この思いをまたひとつのaとかa'とか、そんな記号で表しておく。aという記号に「曇りマークにお月さまマークが乗っているかわいさ」を意味させる訳だ。順次、こんな風に日々のかわいいを拾い集めては記号を増やしていく。長い線路も敷く:「hは風邪を引いてc駅から自室に帰ってくるなり寝込んでしまいました。おりしも季節はx。そこへaがお見舞いにきました。誰もお見舞いに来なくってもaでした。海に流れるa'はみんなのdでした……」。もちろん実践してはいない。つまり毎日言葉がやっていることの一端に余計者の位置からふれてみただけだった(だろうか)。


 ひとが能動的になにかを意志しようとすると、必ずその意志は知覚というかたちで受動的な追認を背負い込む。そんな次第にデカルトは『情念論』でふれている。この受動的な追認は原理上無限後退すら許す筈だけれど(スピノザ)、ここで仮に「私は考える(と私は感じられる)」という一文を立ててみる。能動と受動の接着を模してそんな一文を立ててみるとして、だけれども括弧の中、つまり意識の受動的な側面なしの、単独で成立する能動の意識というものがありえるのか私には判らない。
 たぶんまずい比喩を使うと、たとえばこんな風だ。紙に落とされた一滴の水があるとき、水が紙に染みこんでゆくことと、紙が水に染み込まれてゆくこと、現象的に両面あるだろうそのどちらが欠けても「考える」ということをうまくつかめない気がしてしまう。現象学の思想史にこれは古くからの問題なのだろうとも思うし(意志にかぎった言述ではなかったろうにせよ、「さわる手はさわられる手」を語った書き手を思い出しているところだ)、意志における能動と受動は形式的に抽出された二分法なのだということを措いても、生のうちで能動と受動をそれほどはっきり分けられるともやはり思えない。混濁しながら、取り違えながら、生は、能動と受動の騙し絵とともにこれまで進んできたのではなかっただろうか。
 panpanyaの漫画の人物たちが「オヤッ」「あれっ」と言いながら謎めいて密集した風景の奥へますますさまよい込んでゆく。さまよい込むための、まるで機縁のような「オヤッ」「あれっ」の声を今、誰かも騙し絵のような意識の中で発しているかも知れない。

歌いたいの 耳をふさいでもいいの
歌わせてちょうだい 歌いたいの
考えたくないの きいてちょうだい
泣きたくはないの きいてちょうだい
疲れたら 眠ってもいいから
山崎ハコ "歌いたいの")

 もちろん聴きたいから聴く訳だ。山崎ハコを。少なくとも思いは、そう……。ところがこの歌い手は聴きたいという聴き手の能動的な意志をくじくように「耳をふさいでもいいの」と歌いかけるのだった。「疲れたら 眠ってもいいから」とも。歌から離れたり無視したりすることを聴き手に許容するようでいて、他方、「きいてちょうだい」から始まる歌い手の要求は「踊ってちょうだい」「歌ってちょうだい」「返事をちょうだい」とまで範囲を広げていく。寛容の見かけをとりながら、甘く苦しい聴き手へのダブルバインドが能動と受動の波打ち際へ重なっていくこのフォークソングのうちで、歌い手自身の「歌いたいの」という訴えだけは取り下げられることがない。
 歌いたいという意志はもうすでにそれじたい歌となっている筈なのに、その歌のうちでそれでも絶えず、曲として追認され続ける自分の声を前方へ、いや自分の手前へと投げ込みたい思いが能動のように、ここではたしかめられていくようだ。そうして、歌いたいという声がほかでもない「あなたに」差し向けられていると感じるのは受動的な能動であるのか、能動的な受動であるのか、知らない。

届いても届かなくなるこの声が夕焼けのなか手を上げている/土岐友浩*1

 なにかが届いて、なにかは届かなかった、とか。それは届いたが、これは届きようもなかった、とか。たんに届いただけであったのは判っていた、とか。パラフレーズしてしまえば生彩が周囲の言葉ごと廃滅するように組織された声が、声を時間が追認し追認する時間に遅れを取りながらそれでも先行してゆく声のありかたが、いっさいの留保抜きに「修辞」と呼ばれるべきだとするなら、すなわち読む者に長い一瞬のようにfreeze!=phrase!の命法の響きをもたらすものが「修辞」と呼ばれるべきだとするなら、その先ぶれにして顛末のような細い言葉の汲み上げもまた『Bootleg』という歌集にはいくつもちりばめられていると思えた。たとえばそれは「ゆるやかに降り出す雨の寄り道の神社に咲いているつぼすみれ」*2の雨と神社の間に「寄り道」を差し込む気遣いだったろう、「背のびして手を伸ばしても届かない青々とした葉に吹く風は」*3と手を伸ばすことに先駆けてつまさきからきっと張りつめられた背の伸ばしがあり、そのことが当初葉を目指されていたと読み手に(おそらく書き手にも……)思われていた手の期待がいつか、風の場所にまで引き上げられてしまっていたことの奇跡とぶつかる結句に、ページの下へ下へと向かう視線の先には逆説的な「屋上」の高みがあることを……臆見とも思えずに。
 あるいは「またひとつ星が流れて自転車を押すのと引くのとは同じこと」*4を見てもよかった、つい省略されがちな並列助詞の精確な使用に声をゆだねることが、「押すのと」「引くのとは」「同じこと」と三分割的でもある下の句を広義の句またがりのうちにしずめられる。「昼間から乗せてもらったタクシーの窓から見えたきいろ、むらさき」*5、この「昼間から」から「タクシーの窓から」への言葉運びを大仰に指摘する必要はまるでないかも知れないにせよ、時間のうちの展開を示す筈の、名詞のうしろへついてくるフィギュールが二度目は空間をあけるための優しい櫂で窓を叩いてくれること(きいろから? むらさきからは?)。言葉を省かない口語、であることが慎ましさどころか跳躍を可能とするというのだろう、胸が少し冷えるようなエノンセとしてそう書いておかずにいられない。
 こうして、初めに引いた歌まで戻る。届いても届かなくなるこの声が夕焼けのなか手を上げている……という、対話の困難を撞着語法によってたしかめるような初句・二句を経て夕焼けのなかで「茎立ち」(この語の字面に賭すものがある)を見せる声があり、それが手を上げている……という、「声を上げる」という慣用表現から横滑りしたのか、それもまたひとの身体であるところの手によって声を立たせる擬人喩であるのか、それとも声のうちの未知の身振りに手を重ねたかった苦しい濫喩であるのか、知らない。さらにそして夕焼けが、声と手との間に「寄り道」してくれることがこの一首を単一の読み込みに落ち着くことを許してもくれない筈だ、声が夕焼けてあるのか、知らない。
 として、手を振っているのではなく(そうであれば友愛という古い合言葉の砕けたコノテーションたちが駆け寄ってくるものを)、手を下げているのでもなく(星が落ちたのか)、「手を上げている」である以上、「耳で聴きとるべきものを眼でみとめてくれ、せめてそのための背は伸ばしておく」という無理の声=短歌の声が差し出されてあるのだと私がどうしようもなく受け取ってしまう以上、おそらくなんの里程標でもないこの言葉のような声を「先まわりしてあきらめること」*6とは違う心でふれに行きたいと思うとき、思われるとき、その思いが能動か受動かは致命的な問題ではなくなり始めてもいる。

*1:土岐友浩「Black Jack」、『Bootleg』、書肆侃侃房、2015年、p.116

*2:前掲書、p.22

*3:前掲書、「Dragon's Lair」、p.29

*4:前掲書、「by moonlight」、p.121

*5:前掲書、「blue blood」、p.56

*6:枡野浩一『一人で始める短歌入門』、ちくま文庫、筑摩書房、2007年、p.250

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