読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

横と後ろにかき乱されているものを見ながら

 いろいろなものが切れたり、ため込んでたりしていく中で、トイレの扉を後ろ手に閉めるときにあっ、いつもなにか思い出しそう……となるのが気持ちいいなと思い直した。それはパソコンの前から離れようと椅子から足に力を入れたときとか、振り返ろうとしたときとかもそうだ。部屋の中でどこかへ行こうとするときにからだを動かすとなにか思い出しそうになるのが。なにかを思い出しそうになー、ということが前にもあったなー今と同じ姿勢してるとき。思い出しそうになったことを思い出しそうになる、不安な気持ちいいなのかも知れない。きっともう思い出しかけた最初の記憶なしでも、嬉しいはけずられなくなった。思い出しそうになったことを思い出しそうになった、……ということが何重にも折りたたまれて、からだが決まったポーズをするとそういうのをヒューってする。
 自分がいま住んでる部屋をイメージできない、とくに珍しくない。隣町の映画館からの帰りに、ためしにそんなことをしてみたんだった。つまり自分がこれから帰るぞーって先の風景をイメージしようとしたら、以前に、大学生のころ住んでいたべつの県の当時の部屋ばかりが思い浮かばれて、いつまで経っても今の自分のすみかにイメージが帰れない、と書き直してみるとそれ少し恥ずかしいよ?ということになるかも知れないけれど、知らない。


 いくらか前から同じひとりの書き手をずっと参照しているのは、信頼を寄せてみたい新しい書き手がほぼ見つけられないからで、それは第一に自分の探し方の悪さ、足りなさでしかないと思いつつも、「首吊り芸人は首を吊らない。」、この書き手の日記はほんとうにいいことが誠実に書かれてあると思う。そこで書かれてあることのいくつかは私には同意できないことで、私に簡単には同意できそうもないその隔たりの大きさと強さとが、自分がこの書き手の文にひとつの信頼を寄せ始めたのだということの意味として新しく、感じられてもいる(……)。

「昴の騎士」のシリウスやティエラ、あるいは「OtoZ」のチャコが「なにを考えているのかわからない」ということは、それは彼らが「なにかを考えているから」にほかならないと思う。そもそも、「登場人物たちになにかを考えさせる」ということはいったいどういうことなんだろうか。凡庸な作者は物語や人物に「深み」をあたえようと「この人物はこういう過去を持っていて、こういうことを考えているんだ」と「考える」。そして、「それがプレイしたひとにわからないとだめだから、人物の考えにそった行動をさせたりそれを明言させたりしよう」と「考える」だろう。わたしの考えでは、すくなくともこの一連のできごとのなかで「登場人物たちがなにかを考えた」ことは1度もない。このとき「考えている」のは登場人物ではなく作者であって、登場人物たちが考えていると「考える」のはプレイヤーでしかない。(……)

「登場人物になにかを考えさせる」には「登場人物たちがなにを考えているのかわからない」という状況を生みだすことがおそらくまっさきに考えられる。そうなったとき、すくなくとも「登場人物たちがなにかを考えている」という余白が生じる。そしてその余白においてだけ、作者もプレイヤーもなにかを考えることができる。
(「首吊り芸人は首を吊らない。」2013年2月12日*1

 いつか違うしかたで引けたらいいのですが。


 書き手は多かれ少なかれ偏愛する言葉遣いを持っている。とは言わないまでも、ある言葉を自分が偏愛しているのではないかと気づく瞬間について、そこから自分の手へ向かって内省が始まる時間について、そういうものはどこかで持つ筈だと思う。偏愛、とは違うけれど、私はいつか、通時的に寄り添える言葉を自分に見つけてあげたいと思ったと思う。その場で散発的にしのいでいくようなしかたで壊れるまで飛ぶのもいい、けど、時間をかけてあるひとつの言葉の通時的ななりゆきを自分の中に死守したく思ったと思う。時間にただではないものをいくらかでも賭けてみたいと思ったと思う。
 信頼という言葉を意識的に取り上げるようになったのはきっとそれだけが理由ではない筈だけれど、そしてほかにも同じような思いを求めて取り上げるようになった言葉もある、にせよ、この言葉を食糧がないときのペットボトルの水よりはもう少し以上のものにしたいと思っている。もしほんとうに私が日々眼にするものが信頼できる書き方ばかりであれば、信頼なんて私も言わない。信頼という、ひとにとってはたしかに胡乱で不用意かも知れない、そんな言葉をわざわざ持ち出すのはつまり、毎日幻滅するからだ。毎日幻滅するから、それでも死守をその中からこいねがう、なにものかの書きつけへの期待をまだ私はやめないつもりだからだ。
 「同意」だとか「共感」だとかと信頼とは違う水準にあると、少なくとも私はそう決めてあるので、そこで書かれてあるものにひとかすりの信頼をおぼえたなら、内容には同意できない共感できない、なんてことはなんの傷でもない。こちらの逆鱗に触れられるような、頭が怒りで冷えるような内容であっても、それは私に信頼でありうる。それはそのひとだけのしかたで書かれてあるからだ、と私に信じられるからだ。私はたぶん「地雷」という考え方をあるときからやめたと思う。それでもああ、地雷という言葉をあえて持ち出すなら……もし私にそれがあるとして……私の地雷を、信頼は「超えたしかた」で踏んでくれるだろうと思う。

広告を非表示にする