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コモンと言葉(2)――圏外へのセイレーン

f:id:charonmile:20160714081525p:plain:w500 *1

 ビデオゲームNPCについてここで思ってみよう。ひともおそらくよく知るように、逃げない種類のNPCがいる。土地の住人としてのそういったNPCたちは、どんなにすぐそばに主人公に近づかれても逃げないでいてくれる。あるいは主人公が再会を目指して長く時間を重ねてきたあとで、ようやくその子が画面上に見えるところまできた、ということがあるだろう。プレイヤーの操作キャラクターがそのNPCと近接し、そして会話のためのボタンを押さないかぎり、NPCは一歩も動かず待っていてくれるだろう。
 NPCの「想像的な」視野のうちを推しはかることにはたしかに警戒しなくてはいけない。ランダムに設計されたNPCの歩行パターンや、ビデオゲームの地形を、こちらの現実基準で測ってとくとくとしてみる訳にはいかない。まして操作キャラクターをプレイヤー=「あなた」と無前提に同一視する見方を前にしては……。それでも、まるで自分と断絶した側へたやすく切り離してしまうのではさらにいけない。『モレルの発明』(カサーレス)のひとびとへ、ここで思いを寄せ直すべきだろう。


 自分に所与の属性以上のものを願うこと。初めに配られた取り分以上のものを自分に期待することをまだやめないこと。それが圏外論への呼び水となってくれるなら、「Limbo」(Playdead、2010年)の永遠的な一瞬はレファレンスとしての高みを今も保ち続けている。重力操作のステージでエアのただなかへ飛び込む少年の、歯車に巻き込まれれば手足が砕ける「マッチ棒のからだ」を介して、プレイヤーは自分の操作をもはや画面内のなにものも受けつけない場所へ連れていかれる。それは違う意味で、少年にもそうだった。操作不可能な場所:エアのただなかへ、だけれどもそこでとりうる姿勢にはまったく通時的な操作の歴史が刻まれてもいることを忘れるべきではなかった。その直前までプレイヤーが操作しようとした重力、レベルデザインのうちに書き込まれてある重力、少年がその「想像的な」視野のうちに担った筈の重力、ひとつではない重力たちが結びついてあのフィナーレのからだを持ち上げていたのだ、といま思い出せる。「Souls, on-air?」(菅谷規矩雄)*2。エアのただなか、魂たちが放送しているものを聴き取る耳が求められてある。
 また、衛星都市の中で目覚めたAIロボットを主人公とする「Starbot」(cloudhime、2014年)*3では星空へ至る道が、地上的な岩場を歩く場面からシームレスに書き込まれてある。星空と岩場という二種類のマップが切り離しがたい繋がりをつくりつつ。人間には渡りえない時間のありかが、星とロボットというふたつの存在に引き渡されつつ。Reminder:メモからは滅び去った者の記憶を焚き火のように明かされつつ――と、Starbotの声からはfunny noiseが流れ出してくる:所与でなしに。ぽろぽろと白いドットをこぼしながら待っている星はNPCで、Starbotが主人公として再会すると、重なったふたつのキャラチップは涙が宿るための新しいからだをプレイヤーに見つけさせるだろう。涙を起こすときにふたりだ。

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 初めは操作キャラクターをよそよそしい者として三人称(「あいつが」「やつが」)で呼んでいたプレイヤーが、しだいに熱中してくると一人称(「俺が」「わたしが」)で語り始める、ビデオゲーム内の出来事を我が身に起きたこととしてしゃべり始める……というゲーム実況者のありかたが言われていたのは、インディーズゲームの状況を報せるドキュメンタリー「GameLoading - Rise of the Indies」*4だった。感情移入フレンドリーのモデルをこうしたところから聞くこともできる。プレイヤーと操作キャラクターとを(たとえ積極的にでなくとも)同一視してプレイさせる磁場が待ち構えていることは、同意できないまでも、たしかに、ときにあなどれない。
 プレイヤーと操作キャラクターとの関係を語る言説を見回してみるとき、テレプレゼンス経験という考えを仮想空間論の分野から援用しながら榊祐一が書いている*5。論者によると、ビデオゲームのプレイ経験には、それを物語経験として受け取る水準のほかにもうひとつの水準があるという。「『今・ここ』に存在すると同時に『ここ』ではない『どこか』にも存在し、かつ、その『どこか』の環境に何らかの影響を与えうるような形で行為が可能であるような状態」*6のうちで得られる経験、それがテレプレゼンス経験と呼ばれている。ここでビデオゲームにおける物語経験は、ゲーム内の出来事間の因果関係に基づき組織されるものだとされる。どの出来事がどの出来事に先んじるのか/後続するのかといった時間的な編集をときに内省によって得ながら、パッケージされたひとまとまりの経験としてプレイヤーが受け取るもの、それが物語化されたビデオゲームの経験ということになるのだろう。テレプレゼンス経験は、そういった物語経験からはこぼれ落ちてしまうものをまさに示すために呼び込まれてあるようだ。物語化=時間的編集を経ない今ここでのプレイ経験。今ここでボタンを押せば画面上のキャラクターが会話を行い、今ここで十字キーを動かせば画面上のキャラクターが歩き出す……といったように、操作キャラクターとプレイヤーとがゲームシステム上で動作を分かち合うことで持続していく経験*7。それはしかし、「共感」や「感情移入」の水準でやりとりされる経験ではないのだとされる。それはむしろ「シンクロ」なのだという。プレイヤーのゲーム操作行為による(問題含みの語を使えば)直接性が参照されたい訳だ。
 すでに明瞭な批判がこの論文に対して挙げられてあるように*8、すべてのビデオゲームのプレイ経験がテレプレゼンス経験を論理的に含意する訳ではないことは否定できないように感じられる。私としてはそれ以前に、「物語経験」や「出来事」といった用語にやはり警戒してしまう、とまでは言わないまでも気になってしまう。とりわけ、なにが出来事なのか、いやネルソン・グッドマン風に言えば「いつ出来事なのか」という問いは、それぞれの個人のゲーム経験のうちで簡単には明かしえないものをいつでも浮かび上がらせるのではないだろうか。仮に物語という語を慎まないとしても、出来事と物語とをある結びつきのもとに語るには、そのための最小限の備えにさえこちらの手札は足りないようだ。
 テレプレゼンスの考えはそれでも無視できないものがある。ただしそれを論者から外れて引き取ってみるならば、プレイヤーと操作キャラクターとの間にだけ成立するのではない場所で。操作キャラクターが操作キャラクター自身のうちへ、いわばテレプレゼンスを生きるという、そんな瞬間をいくつかのゲームは教えてくれている。


 
 願わせて欲しい:「ゲームセンターCX」を通してある日観ていた。すると忘れられない、有野課長が「ファミコンリミックス2」のゲームタイトル画面に大きく表示される2Pコントローラーのマイクのスイッチを見つめながら、「マイクの『ちょぼ』動かしたいなあ」とおそらくなんの気なしにつぶやいてみせたことがあった*9。この「ちょぼ」という言い方は、十分に衝撃的なものであった。圧倒的な名づけ。このような力を端的にまだ持てないのであれば、自分がどんなことをこの先書けるか知らない。たしかに、そう……。「そうさほうほうを解読するところからもうゲームははじまっているの!!!」*10とは、アンディーメンテのゲームの説明書にある偉大な訴えだった。こうした誠実な訴えにもしばしば真正面から見つめ返せない者であれば、と。
 「Nepheshel」(Studio Til、2002年)、「虚構に咲くユリ」(A.Sasaki、2002年)、「夜明けの口笛吹き」(奥山キイチ、正式版配布は2003年)とRPGの書き手たちのよこした歌を辿るうちに、だけれども:いつか:ひとつの思いが育まれてきたと思う。モチーフや設定をつまみ上げては忘れ去るような語り方で作品を囲い込むのをためらいたい、そんな気持ちであるとき、なにか。

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 2011年に「天使のうつわ」、2013年に「おばけと魔法と」でもちという書き手がそれぞれに示したと思われる達成点の高さは紛れもないものだ。ただ、それについて言うべき言葉が私には足りない、と今も思う。吸血鬼におばけにおおかみ族にと登場人物を増やしていくことでその先に掘り当てられるべき一点を待ち受けているのだとでも語っているような賑やかさ、被造物に対する優しさと怒り、土地化した心、周回プレイというRPGの現在の様式を受け入れた上でのみ開かれる運命論など。そんな風にモチーフや設定を挙げてみても、なんら、明らかになる訳ではなかったろう。
 この書き手に対する感想として読むべきものがあるのはやはり、ビデオゲームに対していつでも決定的に重要な指摘を残してきた「首吊り芸人は首を吊らない。」ではないか。「20世紀の夢をもはや信じることはできないということ」を、だけれどもまた「20世紀の夢をとおしてせつじつに語りなおしているということ」*12によって「おばけと魔法と」から固有の美点をすくい上げる見方には、同意してみたい気持ちがある。誤解をおそれずに言ってみるならば、それは私には「後衛には後衛の賭け金がある」ということの意味合いで聞こえる。いや、前衛か後衛かを性急にくぎってみたい訳ではなかった。見下ろし視点の……RPGという形式の……つまり、この世界で、一人プレイであるビデオゲームの賭け金が問題になっているのだと思うから。
 セラ・プレゼンス。セラにプレゼンスのプレゼント。心はどこにでも……。いや。「おばけと魔法と」を立ち上げる。画面には緑の髪の少年が表示されている。それがセラ。と、ここで、そうでばかりではない思いはどうしたって消えない。なにを言いたいかは判っている。つまり、こういうことだった。おばけの館をうろうろと歩き回るセラのキャラチップの上に重ね合わせるように、まったくべつの場所でまったくべつのことをしているセラをも寄り添わせて思わずにはいられない。画面上の操作キャラクターが、その子自身のテレプレゼンスを生きるということは、端的にこうした情景から延長を持つ。それはたとえば可能世界論的カテゴリーにはまったくない情景な訳だった。というのはここでプレイヤーとしての私は、「いま画面上にセラがいるけれど、もしかしたらこのセラはべつの場所にも生きているのかも知れない」などと考え込んでいる訳ではぜんぜん、ないからだ。もし……とか、……だったらの語法でこの緑の少年を案じている訳ではぜんぜん、ないからだ。目の前の画面に映るものとしてプレイヤーの私が操作しているセラは、そのことによってそのままべつの場所で生きてあるセラと写像を結んでいるのだから、だ。
 だから、問題になっているのはこういうことでもあった。目の前に表示される「このひと」を今ここでたしかめつつ、しかしそのことがまた遠く離れた同じ「このひと」をたしかめることにもなっている。なにも可能世界論の話ではなく、実直な事実の記述としてその思いは描像される。「おばけと魔法と」をプレイしているうちに、ある時点から、セラの歩んできた通時的な行いがすっとどこかへ退いていく感触はたしかにあった。退いていくことはだけれども、消滅するのとは違う。ときがくればそれはまた戻ってくる。見つめる先の現前がたえず交代していく稀な感触をこうした作品にたしかに見出しながら:心、とそれを名づけることは控えながら。


 「今ここにはいない誰かを思う」というそれ自体は切実な願いとは少し違う表情を、ビデオゲームを通じてどうやら見出し始めたようだ。見出され始めてあったのは「今ここにいるひとを思うことが、同じそのひとを、今もどこかにおいて思うことになる」ということの意味の筈だった。
 ここにいる筈がない者の姿の出現にヨウコとともにプレイヤーもまた驚きながら、「帽子世界」(えぬ、2013年)の終盤を思い出すこともできる。作中でクリスタルとは石=意思のことであると語呂合わせのように書き込まれていたけれども、そのクリスタルが帽子世界内ではない場所での戦いによっても出る時点で、夢の箍は外れていたのかも知れない。召喚する、召喚される、といった行いへの希求はここではどこまでも具体的だ。
 交代的現前のありかについて刺し傷で生成されたのろしのように、無言の秘め方のように、かなしみホッチキスが「タオルケットをもう一度」シリーズによって語り起こし続けてきたしかたも、いまだ誰にも正確に語ることができないでいるに違いない。「笑う、わらわぅ」(かなしみホッチキス、2011年)、ベッドのそばで誰かの叫びのように人形は床に落ち続けるだろう。ここにある叫びを聴き取ることが、あそこにいる叫びをかき抱くことと、たとえ比喩としてさえ質を同じくしはしないとしても。謎の砲撃で立ち止まることが許されない視界不良のマップを出口も知れぬまま汗しながら抜けると、「いんさつき」という発明に恃みを寄せる家に行き着くのは、「四月馬鹿達の宴」(西高科学部、2010年)*13だった。装備品を灰にすることで、パラメーター上昇や特殊スキルの付与といった恩恵が与えられるこの作品のシステムが暗に打ち明けるように、まさにキャラクターのからだは灰かぶりの記憶を背負ってこちらとあちらとの:白黒の:境界線に挑み続けている。


 ひとつのからだにふたつの心。ではなく、ひとつの心にふたつのからだ。ではなく、(……)こうして無限後退を繰り返しそうな日もある。あてもなく混濁する前に、信じられる言葉を読み返しておきたい。

 「他人の役割を演じながら能動的に行動する」ゲームの要請と、「できあいの物語を受動的に受けとる」物語文学の要請。いま、「ゲーム性」と「物語性」という名のもとで、対立的に見えていたのは、この二つの要請にほかならなかった。そして、すでに述べたように、一部のRPGは、この二重の要請をプレイヤーと主人公の二重性のうちに、一つの体験として表現しようとつとめてきたように思われるのだ。(……)RPGの現在は、この「ゲーム性」と「物語性」との対立を乗りこえた地点にこそ存しているはずなのだ。
 (中田健太郎「人はときに世界を救う必要がある」)*14

 操作キャラクターをプレイヤーがすっぽり入り込めるカプセルかなにかとして見るのではいけなかった。それはビデオゲームという生をプレイヤーとは独自に育んでいる存在を軽視し傷つけることだから。だけれども、プレイヤーと操作キャラクターとの間に明瞭な境界線でもあるかのように振る舞い、無関係の者同士としてたやすく済ませてしまうのではさらにいけなかった。それは行為というたいせつな主格を軽視し傷つけることだから。一人称性と三人称性、プレイヤーと操作キャラクター、色や線としてゲーム画面に書き入れられる基盤的空間と、それを通して想像的にプレイヤーが立ち上げもする物語的空間*15。それらの間でどちらかに性急に軍配を上げることを、ただ、やめてみようと思った。


 星々が静止して見えるのは、彼らが我々と肩を並べて進んでいるからだ、と:オーギュスト・ブランキが書いた一節から、錯乱のほかの冷たさを:NPCと操作キャラクターが止まるのが見える、操作キャラクターのうちで止まる操作キャラクターが止まるのが見える、プレイヤーが止まる:「このひと」は「そのひと」に対して指示的に透明である、と言い切るにはやはり躊躇する朝が来て、文脈という時計の針を誰かは自分に向いていると気づくかもしれない朝も、そうでありえない朝も。

*1:WOLF RPGエディター」(SmokingWOLF)付属のグラフィック合成器で作成したもの。

*2:菅谷規矩雄「METS 84 (Part1)」、『死をめぐるトリロジイ』、思潮社、1990年、p.37。

*3:「Starbot」 http://cloudhime.tumblr.com/post/102050322226

*4:「GAMELOADING: RISE OF THE INDIES」 http://playism.jp/game/363/gameloading-rise-of-the-indies

*5:榊祐一「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム――『バイオハザード』を例として」、『日本サブカルチャーを読む』、北海道大学出版会、2015年。

*6:前掲書、p.258。

*7:ビデオゲームにおけるテレプレゼンス概念を考えるとき、「によって(by-relation)」と「において(in-relation)」という二種類の枠組みから行為を分析していく野矢茂樹(「23 行為の構造」、『哲学・航海日誌』)の議論も、あるいは補助線として持ち込めるかも知れない。その場合、テレプレゼンス経験は「十字キーを押す指の動きによって、操作キャラクターを歩行させた」「操作キャラクターが会話することにおいて、プレイヤーの指は決定キーを押した(または操作キャラクターはしかじかの言葉を表示した、任意のイベントが起動した)」といった記述を伴うだろうか。

*8:9BIT「『物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム』について」 http://9bit.99ing.net/Entry/61/

*9:ゲームセンターCX 有野の挑戦『ファミコンリミックス 1+2』前編」 https://youtu.be/j23tGeK3zu0

*10:ジスカルド「スミレの花」、2006年。

*11:もち「天使のうつわ」、2011年

*12:「首吊り芸人は首を吊らない。」2月23日の記述から。http://kizuki39.blog99.fc2.com/blog-entry-1295.html

*13:以下の論文の第四節では「四月馬鹿達の宴」が取り上げられており、命名行為などを通したプレイヤーと操作キャラクターとの関係が詳しく述べられている。「ゲームが語ること/ゲームを語ること、の可能性」https://docs.google.com/file/d/0BxxUEcuEpiddcWFmdTF2NmlTSmFnd3NqSVlsYWZadw/edit

*14:中田健太郎「人はときに世界を救う必要がある」、『ユリイカ』4月号、青土社、2009年、p.114。

*15:この点で、松永伸司の「ビデオゲームのゲームシステム空間」(http://www.geidai.ac.jp/labs/aesthetics/matsunaga/mtngbks.pdf)は、ビデオゲームの空間表現を、画面レベルと、画面を通して構成される空間レベル(これもまた二種類に分類されている)とに注意深く区別していて説得的だった。ビデオゲームの視覚表現の分類については、吉田寛ビデオゲームにとって『リアルな空間』とは何か?」(http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81002962.pdf)も参照。

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