現代俳句と現代短歌と現代詩とをいっぺんに読み出した。そうに、決まっていた。そう……の筈でもあった。間もなく「いっぺんに」の前に「できるだけ」がつき出し、「思いのうちでは」へまで押し出され、明らかなことは明らかになっていった。詩の華々しさ以上に詩論の華々しさが物を言いそうだった時代。戦争詩論(瀬尾育生)は「短歌にまったく触れずに日本の近代からの詩の通史が書ききれてしまう」だったっけ? そして詩人=弟が歌人=姉(比喩じゃない、よ!)に歌を発注したとき、それに応えられた歌はとても「よかった」ということを軽い気持ちでかいていいものかどうか、まだ判らない(藤井常世藤井貞和の合作のこと、だよ!)。

 藤原 わたしは定型でちゃんと書けるひとがうらやましい。言葉を信頼しているなということをすごく感じるんですよ。だから逆に言うと、俳句や短歌は言葉のひとつひとつがすごく高圧的にも思える(笑)。(……)現代詩の書き手は、言葉をそんなに信頼できなくてもいい、もっと別の可能性を試せばいいんじゃないかとわたしは思います。
(坪内捻典、中尾太一藤原安紀子、倉橋健一「若い詩人の表現をめぐって」p.46、『イリプス IInd』3号、澪標、2009年)

 中尾 でも、若いひとがもし詩のなかで文語をぽっと使ったら、ぼくは笑いますけどね。それはないなと。
(前掲書p.50)

 今ようやくこれだけを引いてきたところだ。話が、蒸し返されること自体はたぶん悲惨なことではなく。ビッグマイナー、スモールメジャー……ビッグスモールメジャー、スモールスモールビッグマイナー……。どんな詩形を選ぶにせよ、また選ばれるにせよ、そこでジャンル間のコンプレックスごと受け取るべき遺産には数えなくてももういいのだ、という処方箋をつきかえすというではなく。逆に、これほど時代を経てなお今もかつてのようなコンプレックスが作動しうる、どころか現にがんがん作動中だ、というのだとしたらそれはどうした訳か、という調査報告書を記しにいくというのではさらになく。