ユックサックは配信する(土地よ、痛みを騙せ)

 2Dにせよ3Dにせよvtuberのイラスト/視認可能なモデルが「ガワ」と呼ばれ、そこに身振りや声を吹き入れ、同期する配信者個々人が「魂」という用語で指し示されるようになって久しい。心身問題の議論史にあかるくない私にさえ、この「魂」とは最も素朴なひとびとの気分を投げ捨てるように名づけられたものだとでも思わなければ呆然としてしまう種類のものではある。要は、気乗りしない訳だ……。「まだいるな、『魂』とかほざく奴がさ」(岩尾忍「0cal soul」)。流通の飛ぶような速度を条件としてのみ明かされる言語のパーティーのなかにそうした戸惑いをねじこむのもしかし、場違いなことではあるのだろう。それはよく判っている。
 それでも、最も素朴な二元論の水準につきあってみるのなら、そこで指される「魂」とは実のところ、配信者の(精神+肉体)の総称、つまり結局は配信者の「全身」ではないだろうか……。ガワに魂を吹き込むという構図はまさに、配信者の「生身の器を捨てた精神」がモデルという「精神なき器」に乗り入れるという情景を誘うように見えてしまう。しかし、現に表情(顔の筋肉の動きだ)や、身振り(手や足や肩や胸の揺れや配置だ)や、声(咽喉のふるえ、くちの動かし)……といった表出を通じてほとんどのvtuberにおいては、配信者のからだに連動してイラスト/モデルが駆動しているという当たり前のことを思えば、魂は依然として肉体をネグることなどできまい。
 ガワの定義からしてもちろん配信者の肉体がそのまま表出する筈もなく、問題となるのはからだの運動機能の側面ではあるのだろう。さらに人間のからだを逸脱したモデルとの連動や、あらかじめバストアップのみが画面に反映される場合など、ケースはどんどん広がっていくのかも知れない。それにしても、魂という語義の運命に、肉体がこんなところでも乗り入れてきているということからまた感じ始めておきたいと思う。





 「闇」とかいうジャーゴンは私の部屋からはもう閉め出しておいた。私の部屋の外で飢えて死ぬ言葉なんてないからな。許せる言葉、許しがたい言葉……許してしまう言葉、いつか許せるようになるかも知れない言葉……………許せない言葉だと信じて疑わなかった言葉、昔は平気だった言葉。
 クローゼットの中にこもって配信を続けたり(家長むぎ)、雑草を食べたことがあると告白する(月ノ美兎)。たったそれだけで奇人や変人とされてしまうのが、この「手の早い」世の中なのかも知れない。また「やべーやつ」が来たという訳だ。やべー魂が。やべーキャラが。vtuber自身そういったイメージ付けを利用し、積極的に享楽していく部分があることもたしかに否めない。なにを言うべきだろうか。
 もっと単純な話だ。奇人とか変人とか言いたくない。言えない。そいつらも部屋から閉め出しておいた、とは、言わない。ドアの開いた30度。32度、22度、44度……。奇人や変人の山扱いされてきたシュルレアリスムに眼をうつそう。ブルトン宛にかいた手紙をしかし、ほかならず自分自身の住所へと届けさせてしまったデスノスを思い返してみよう。それは奇行であったろうか。また、もしそれを私が奇行と呼ばないなら、その理由はデスノスの手紙の投函が詩的(嫌な言葉だ)な行為だったからだろうか、あるいはすでにしてシュルレアリスムの歴史上の重要エピソードになってあるからだろうか。
 もっと単純な話だ、ね・が・わ・く・は単純な話だ。