伊藤、比呂美が、松平、修文の歌をほめてるんだよ……!!!! 頭のなかで太字強調された思いを、頭のなかで太字になぞるたのしみをまだ切り離せないまま。

 実をいえば、「アルカディア」Iは、衝撃だった。現代の短歌に初めて触れたのである。現代詩とはちがう、だがひじょうに近い世界があった。短歌はまさしく、詩よりも歌に近かった。わたしが指摘したようなそぐわなさを感じた作品が多かったことはたしかだが、わたしたちの詩が冗長であると感じたほど感動した作品も多く発見したのだ。松平修文。くりかえしくりかえし読んでいる。


かがりびさうひかりゆりらうそくあやめなどともる野を疲れつつきて目をさます


 日本語はこんなにもやわらかい。
伊藤比呂美「やはらかい」p.25、『アルカディア』III号、沖積舎、1980年)

 「松平修文。」で、はあ…………となる。もう、私は、ほとんど名前を打ち明けられた……!といったレベルで受け取る。松平修文。そして、「くりかえしくりかえし読んでいる。」という箇所に私なら、じーん、としてしまう。けしておべっかをつかってる訳ではない、思いもしない。このひとはほんとうに驚いて、くりかえし読まれたのだと判る。「歯で毛を噛んで」をたとえば「はでけをかんで」と、みずから詩で漢字の顔の皮を引き抜いてもいた伊藤比呂美にも、かがりびさうは刺さったんだ……と思うだけで、私はやっぱり、じーん、とする。
 この「やはらかい」という『アルカディア』に寄せられた文は、前半が短歌批判になっていて……まあそれは編集部からの依頼であると断りが入れられたりもしているけれど……伊藤比呂美から歌人たちに向けての率直な疑問という体をとっている。その率直さを私は疑わない。それでいてやはりどうしようもなく、結局は、歌人に対する現代詩人の「伝統的な」倨傲に回収されてしまうものでもあって、「たった31文字(いや、31音!)にひとの情感なんておさめられないんじゃないですか?(=「だから自由詩に来いよ」)」「なぜ、遠い昔なら通じた古語や文語をいまだに捨てないのですか?(=「現実の、日常の、みんなに通じる言葉でやりなよ」)」といった視線を相変わらず聞く。
 またそれかという反撥をじっとりと養う前半と、松平修文を引いてくれたといううれしさでいっぱいになる終わりとの間に連絡がつきがたい。とくにときほぐすような、それは。本文の最後を「やわらかい。」としておきながら、文の題を「やはらかい」に、伊藤比呂美にさせたちからはなにも言わない。数年前に初めてまとめて読んだアルカディアに「解決」はない。