国立国会図書館に遠隔複写を頼んでおいた。発送まで時間がかかる分、いまお金もってないよ(でももうちょっとで入るよ!)ってときに便利。便利ではない……。でも来週だったらタイミングよく払えそうってのを見越して、というのある。こういうささやかな見越し……いろんなところで見つかる。古本を送ってもらうのもそう。
 私のすみかからは氷川神社そばの図書館がいちばん大きい。たしかおせんべとか売ってる民家らしい店が入り口にあって、赤い鳥居はシューティングゲームのように空に高い。駅から離れて氷川神社に向かう道には自転車屋さんがあって、ちょっと進むとまたべつの自転車屋があったりしてよく判らない。黄色いアルミのきらきら。ロフトでバイトしていたころたまに寄ったレンタルビデオがないというか、そこの代わりに自転車屋が入ってるような……おぼえ。途中、水溜まり一個分、前に足を出せば渡れるところでただでは渡らせない信号待ちスポットがあって、でも横から車がなかったら赤でも私、渡る。見張りがそういうとき胸のなかの嫌だ。描写のことは忘れた。
 この街に来てからいちばん眺めてきたのは月極駐車場の妙にやわらかそうなグリーンの色のつやつやした金網、とか、幼稚園の花畑を囲ったフェンスかも知れなくて、そうなら私が生まれてからいちばん眺めてきたものと同じくなる。

 靴を直す、というのはとてもまっとうなことのように思う。これまでは、直してまで履きつづけたい靴に出会わなかったんです

 九月、という、水橋佑美さんのかいておられた日記から。とてもすき、あっと思うし遠すぎるから。誰かの生活を思いの上で相手取って、苦手くらべをする趣味は消えた筈なのに、ずき、とする。


 なにも思い出させないからいい。と言葉でかくと理屈めいてる。でもほんとうは、ひとは思ったより多くの瞬間、そんなふうな筈と思う。「この作品からはなにひとつ思い出さないからいい、すきだ。すごい」というときめきの態度が誰かのなかで芽ぐまれてあるだろうか。「思い出させない」というのは未知性?とか新規性???といった観点とはとりあえず無関係のこととして言いたい。
 たぶん。というより。もし、ひとが、どこからどこまでが「思い出し」なのか決めかねると言うのなら、私もそれに同意だと言いたいです。そして原理的に決めかねる筈のものを、当座の理論というでなしに、いや、これをこそ自分は思い出したのだと判断することが自分への倫理的態度のひとつであることさえ認めるとしても。