叶ったものの外延、叶わせたものの外延

 「○○○○○って言ってもらえますか?」というリスナーからのお便りを読み上げるときすでに要望は叶えられている。これを企み深いスピーチアクトと言うべきだろうか。いや、ことさらに深刻視するまでもなく、ラジオなり動画なりの配信者の多くに共有されたこれは、無意識の話法のようなものになっているのはたしかだ。
 さっきまで私が視聴していた配信では次のような語りの流れがあった。

 「えー、なに……


 『○○○○○って言ってもらえますか? X(=投稿者名)』


 言わねーよ!!!」

 ここから繊細な議論を展開することも、いくらもできるに違いない。言わねーよ、と言いつつ、言ってしまってもいること、配信者もたのしみつつそれを……行うこと。「言うこと」を「言うこと」で自分自身に幕をおろそうとする根っからの口唇的なスピーチアクトを誘引するべく送られたコメントに、拒否しつつ遂行できてしまえる……こと。また、たしかに次のような仮定をすることもトークの場の意識には沿うだろう。「○○○○○って言ってもらえますか?」という部分を読み上げるときは、投稿者の代理で読んでいるだけなのだと。のっぴきならずも、投稿者のコメントを同じく音声として拾い上げることは自分以外にはできず、機械ソフトなどを頼ったりなにかほかの手助けがない以上……配信者自身の声で読み上げなくてはならないから、とはいえ、自分で同意したものとして読んでいる訳ではないのだ、と。
 現に「○○○○○」という要望がすでに一定の有名性を獲得している定型文であったり、その配信者からいざ口に出されればどういう響きで言われるか想像しやすいニュアンスをもった台詞であったりする場合がある。そういったとき、配信者が気乗りしていないであろうことは「○○○○○って言ってもらえますか?」を代理で読んでいるときにもう汲み取られる筈でもある。「○○○○○と、自分の気乗りでちゃんと言う」か「ちゃんと言わない」かで変動する声の水準は、たとえ最後まであいまいであれ、長く配信を聴いているリスナーにはやはり伝わらずにはいられないだろう。
 またべつの配信の記憶。そこでは「○○○○○って言ってもらえますか?」と読み上げたあと、「やりました。はい次」と流されていた。こうしたケースでは意識的に、代理の声と自分の声とを結び合わせることのうちにたのしみが拾い上げられてもあるようだ。要望を読み上げてもらえることと、その要望が叶うこととの区別がつけられない、こうした「言ってください」の延長線上に、投稿者名をそのまま要望の文面にしてしまうという遊びもあるだろう。動画配信中など、コメントを拾われることはむつかしくとも、なんらかのアクションによって視聴者名は読まれる機会がある場合などでこれはとくに顕著になる。
 読み上げられた時点で叶えられる要望の例をここまで簡単に見てきた。仮に敵対関係の下に見てしまえばこんな要望は初めから配信者の側が不利なゲームで、何度聞いても「言ってください」コメントからある種の原初的な言葉の罠を新鮮に感じるのも否めない。同意と不同意の手前で、ではなく、むしろ同意も不同意もあらかじめスキップした先で交わされるようなお願いのコメントを今日も耳にして。