封殺された「水色のほくろ」のために

 10年ほど前、『モダニズム詩集 I』(鶴岡善久編、思潮社、2003年)についてかいた文があって、今日はそれを引っ張り出している。以下ではその当時の文と通信をとりながら、あらためて少しかいてみたい。


 毀誉褒貶というよりはるかに、あらかじめ反省的なかまえによって「解毒」した上でなければ紹介されがたいものはどのジャンルでもあるのだろう。それらは後の作者たちや運動たちによって「乗り越え」られた、あるいはおのずから「行き詰って」自滅した、という進歩と優生学ディスクールを同伴者とすることでようやくジャンル紹介の益にありつける、とでもいった……「お前も歴史を見ろよ。そいつらは解決済み、敗北済みだ」とでもいった。やや強く言いすぎているだろうか。ともあれ、ある時期までは(もしかしたら今も?)、短歌では、戦前のモダニズム短歌やプロレタリア歌、自由律運動などがそれにあたっていたように感じられる。モダニズム短歌についてなにか知ろうとする。すると、その紹介は「終わっていた」(……)。そしてここ、『モダニズム詩集 I』に収録された一群のかきて。その作品の裏にぴったりと封殺の歴史が張りついてあることを『戦争詩論』(瀬尾育生)などの議論の重さによって正しく受け入れつつ、またここに収録されなかった萩原恭次郎、平戸廉吉といった詩人をも想起しつつ、初めに私がそもそもこのアンソロジーを知ったきっかけである小笠原鳥類の文を思い起こしてみよう。上田敏雄について。1930年の。

爆発爆発爆発の遠雷の蝶の睡眠硝子宮殿の硝子噴火硝子飛行機の爆音虚偽の帆船旅行開幕開幕開幕の開幕の響音美麗の屋根の三億年の火事戦端戦端戦端を開けのやうに閑散の硝子水母類の発砲の薔薇噴火の絶叫硝子製ボルニユの発汗の大陸永遠の金属の足の雨の火花滑車海岸線の珊瑚の泡の永遠紀念の花火の水脈返答し難き雷神の沐浴美神の裸体の格闘譬へば月の征服尖塔の麻痺蝶の強烈の睡眠嗜好或は舞踊電燈の夢遊旅行の頼信紙の自働廻転の吹雪或は電鈴の自働旅行の雨の針永遠瀑布の雷雨君は何処にゐる?君は何処にゐる?君は何処にゐる?の如く自働雷雨雷雨雷雨の光線永遠飛行の光線劇場の未発見未発見未発見の噴出それが劇場だそれが劇場だそれが劇場だの如く光線の噴煙それは雨の音楽だそれは雨の音楽だそれは雨の音楽だの如く光線の月の月の月の音楽だ初舞台の現場不在だ震動だの如く一個の円形劇場電光に巻附かれる隠匿猛獣は爆裂する電流瀑布に咬み附きたる金属猛獣の咆哮咆哮咆哮の爆裂渦巻く火玉の爆音爆音爆音の迷路激動の火焔格闘の落雷落雷落雷の強烈噴煙の火花震動震動震動の隠匿領土の火の大尖塔の五億年の痙攣の結果の突進突進突進の大旋風の

 
上田敏雄「Oeuvre Surrealiste」から(Sで始まる語の5文字目のeには右上がりのアクセント記号)。『モダニスム詩集1』から引用〕

 
 この詩は句読点や空白のない、いくつかの章や段落に分けられてもいない散文で書かれており、全体はこの約12倍の長さである。と書くと逃げ出す読者もいるかもしれないが逃げないで。
 題名はフランス語で「シュルレアリスムの作品」という意味だが、しかし、この詩がどのようにシュルレアリスムであるのか、ということを考えなくても知らなくても楽しく読めることは確かだ。結局、「爆発」「火花」「夢遊」「噴出」「音楽」「震動」「電光」「爆裂」「咆哮」といった、ある芸術的な強い衝動に関わることや、繰り返される「君は何処にゐる?」という疑問で示される謎(「未発見」なもの)への興味及び狂おしい恋情が、この詩の最初から最後まで一貫して言われているようであり、それを主題であると見ることによって、(他に隠された特殊な意味があるのかもしれないが、しかしそのような意味を避けながら)すらすらと快適に読み進めることができると思う。だが、この詩の特色はそれだけではない。
 句読点を用いずに言葉を次々に組み合わせていくことによって、独特な興味深い語が次々に登場してくることに着目できる。特に、いくつかの漢字の語を組み合わせて形成される語が特異だ。「睡眠硝子宮殿」というのは夢の中に出てきたガラスでできた幻想的な城なのだが、漢字だけで書かれることによってそれはとても硬くて、精密に設計されていて、冷ややかに光っている。「絶叫硝子」というのは、割れて大きな音を出しているガラスであり、割れる音が響く一瞬にだけ存在する物体であるのかもしれず、あるいは、人間の絶叫が空中に形成する、ガラスのような透明で硬い、幻の物体であるのかもしれない。「舞踊電燈」は踊っている人を照らす電燈か、それとも「光線劇場」で踊っている電燈の光だろうか。光の踊り、というのは、この詩を読む時に見えるサイケデリックな動きであるかもしれない。その「劇場」には「隠匿猛獣」や「金属猛獣」がいる。勿論、それは詩人の中に隠れていた禍々しい獣である部分であり、詩を書くことはそのような獣の出現である。これらのような意外な語と出会うことによって、これまでよりもさらに、自分の発想の能力を高めることができるのではないだろうか。そこには興奮が、高揚があるのだ。勿論、この詩を読んで得られるであろう興奮、高揚の原因を、どこまではっきりと説明できるか、というのも重要で困難な問いではある。単に漢字がとても多い、ということだけで、人は興奮するだろうか。
(小笠原鳥類「幻のようなものを出現させること ――『ヴェロニカの手帖』『モダニズム詩集1』『十字公園』――」、いんあうと、2004年*1

 退屈だと言われてきたものがどれだけ退屈なのかたしかめるため、ひとは詩を歌をさかのぼって読む訳ではない筈だから(そういう仕事の重さもある)。つまり小笠原鳥類はいつも自分の惹きつけられるもの、反対によくない、つまらないと思われたものへの感情を隠さないでかいてきた詩人だから、それがときに外目から弱点そのものと思われるまで衒いないこうした文によってのみ、よく紹介を伝えることができる、そういうシーンがある。ここで小笠原鳥類は言葉の組み合わせに惹きつけられているようだ。「睡眠硝子宮殿」「絶叫硝子」「舞踏電燈」といった造語が肯定的に見い出されるのは、モダニズム詩の記述を、ほとんどその急所そのものでさえある恣意性として、どの単語もほかの単語と交代的でありうるほど一篇の詩内における主体の選択性を欠いた文法として……つまり「この時期の」「こうした運動の」「こうした詩の、典型」として、読む前からナメてかからない読み手の前でのことだったろう。
 もちろん誰もがモダニズム詩に対してこうした率直な驚きや喜びを共有できる筈もないし、そうすべきでもない。私自身、上のような興奮を詩人とともにすることはむつかしい(山村暮鳥の名がひかえられてあることに詩人の誠意を読むべきだろうか)。それが問題なのではない一方、こんな風な読み方によって、大仰に言うつもりもないけれどモダニズム詩がこうむってきた詩史的解毒に向けての対抗解毒を受け取ったように私が感じたのにも違いなかった。


 「単に漢字がとても多い、ということだけで、人は興奮するだろうか」(小笠原鳥類)。シュルレアリスムも、まずは「超現実主義」という漢字の圧によってひとびとを興奮させていたかも判らない。ダダ(DADA)の必然的な漢字化しえなさに同じひとびとが同じように興奮しただろうか。
 1920年代の日本におけるシュルレアリスムの受容は、思想面での咀嚼、実践のありかたといった論点以前の問題として、フランス語を日本語に訳出する作業そのもののうちに困難さを抱えてもいたのだと言われる*2。そうしたなか、「超現実主義」の動向に十分に振り回されただろう*3ひとり、春山行夫を引いていく。
 『モダニズム詩集 I』に春山行夫の詩は5篇収録されている。「POESIE」をここでは挙げてみたい。また長くこの詩も。上田敏雄「Oeuvre Surrealiste」と同様に、句読点への敵視、そして自動性への硬いあこがれ。

 豊かな蜜蜂に犬が最初に吠えるコリントスに於ける偶然の論理の発生は不在の承知を導く馳せ来る牧草を咎める運動を仕遂げることは全然意味のない驟雨の解剖である瞬間の描写であるサヨナラを象徴する器具を賞玩する機微な仕事に餓える雲母は恐ろしい孔雀を愛するアフリカの年齢は重い籠を愉快にするアルキビアデスは悲劇的な位置を占有する羽翼を助ける風の食料に点灯する霊魂の感傷である海軍将官の遊戯は驢馬と天国を天使に贈る誕生日の指輪に気が付く樹木に属する群島に近接するアジア人の到着が円く発音する通貨を支へる工場に腰をかける天文学の雰囲気は美しい空気を待つホテルに悲しむ黎明の秋の雨が降る事件を知らせる沼を打つ牧人が下りる風船玉が流れる鉄格子の船舶に必要なる家畜の獣乳のバタは有害である白色の麦に負傷する
春山行夫「POESIE」(原題では「POE……」の「E」にアクセント記号)pp.53-54、鶴岡善久編『モダニズム詩集 I』pp.53-54、思潮社、2003年)

 上下二段組で12ページ改行なし句読点なしで続くこの詩についてなにか評価的なことを言おうとする前に、真っ先に問題となるのはおそらく、引用の切断的機能を強く反省させるというところではなかっただろうか。詩人の恣意性を言う前に、まさに上のように引用することで私の側、読み手の側の恣意性こそがあぶりだされるのだと思える。詩の一部を引用することの問題はなにも局所的な話ではない筈だけれど、とくにこうした形式の詩においては露骨なしかたでさらけだされるようにも思う……。詩をどこからかきはじめ、どこで終えてもいいという空ろなかきての側の感性と、詩をどこから引きはじめ、どこで引き終えてもいいという読み手の空ろな態度が、正確にこのような詩では釣り合うとさえ、言いえるかも知れない。なるほど、統辞法は守られてあるように見えるにせよ、それぞれの動詞が連体形なのか終止形なのか、この文はさらに後続の節にかかるのか、それともここで句切るべきなのか、といった思案は問題のほかだとでも言った風な言葉のつながりに対して、ここからここまでをどうしてもひとまとまりとして引かなければ、と強い確信をもつことはむつかしいだろう。
 どうとでも句切ればいいと突き放すような言葉を読むなかで、それでも、というか、それゆえに句切ることの能動性を与えられるような時間がある。それは、

豊かな蜜蜂に犬が最初に吠える


コリントスに於ける偶然の論理の発生は不在の承知を導く


馳せ来る牧草を咎め


運動を仕遂げることは全然意味のない驟雨の解剖である


瞬間の描写であるサヨナラを象徴する


器具を賞玩する


機微な仕事に餓える


雲母は恐ろしい孔雀を愛する


アフリカの年齢は重い籠を愉快にする

 というかたちを取るかも知れないし、

豊かな蜜蜂に


犬が最初に


吠えるコリントス


於ける偶然の


論理の発生は


不在の承知を


導く馳せ来る


牧草を咎める運動を


仕遂げることは全然


意味のない驟雨の解剖で


ある瞬間の描写で


あるサヨナラを


象徴する器具を


賞玩する機微な


仕事に餓える雲母は


恐ろしい孔雀を


愛するアフリカの


年齢は重い


籠を愉快に


する

 というかたちを取るのかも知れない。いずれにせよ、そのように適時句切ることなしには一歩も読みえない。一個の全体として差し出されてある詩を、歌を、ときに可変的に、ときに解体的に引用することは作品への背反であると口では言いつつ、いざ引用する段となると背反そのものをやってのける、というような言行不一致(スーザン・ソンタグ)を私もやはり受け入れざるをえない……と。では、長い詩から短く盗みとってくるという、いわばこの「悪い」ハックアンドスラッシュによってなにを持ち帰ってこられるだろう。それは、

 帆前船がガラス張りで生活する貝よりも小さい都会に旅行する
(前掲書p.58)

 というミニチュアのイメージであったり、

 気味わるい花束の上に残してあるキスに触るのはよしたまへ
(p.62)

 突然の命令法や、

 旧い比喩を脱しない厚紙の上をとんでゐる雲の子供らしさを思はせる同じものを見たとて何になる
(p.61)

 詩論のような一節、

 音楽的な幸福によつて天国を夢見るためにブツブツいふか金の籠に腰をかけてヨブの不死を椀に受けるか魂をリズムのための敷物とするか崇高な予言はさう毎日できるわけにはゆかないか
(pp.63-64)

 陽気な贅言など。……

 回文ではないけれども、数ページ前でかかれた文が逆再生され、ゆがんだようなパートも拾い出せるだろう。

 数学に感情を害する長椅子を追求する乞食は賤しむべき膀胱を愛する報酬を望まない饒舌な風車は破損した屋根窓で徒らに暮らしてゐる
(p.56)

 其日ぐらしの屋根窓の破損した風車の饒舌を望まない報酬を愛する膀胱は賤しむべき乞食に追縦する長椅子は数字に感情を害する
(p.61)

 こうした自己引用性は、この詩がたしかに初めから終わりまで単に一方行的にかき流された訳ではないということを、ぎりぎりのところで伝えているのではないだろうか。


 べつの詩をもうひとつ引こう。「花ハ花」という作品が春山行夫にある。この詩作品は全体からみると、「★」記号を前後として二部構成が狙われてあるようだ。とくにその前半は題が予告するように、詩行がすべて「AはA」や「A+A」といった種類のトートロジーで組織されてある。この「A」の箇所をどれほど長くしてもいい、どれほどだって複雑にしてもいい……という発見が要であり、同時にその発見にこの詩の価値は尽きているとも、たぶん言われてしまう。そしてたとえば、そのトートロジーの徹底性において「スティル・ライフ/スタイル・リーフ」(ジョルジュ・ペレック)といった作業の前では色褪せて見えてしまう。そんな作品ではあるかも知れない。 

喜劇俳優ノ花束ハ半円形ノ長椅子ニ似テヰル黄昏ニ喪エル喜劇俳優ノ花束ハ半円形ノ長椅子ニ似テヰル
小サイ港ハ霧デ彩ラレタ森ノ首環ヲ捲イテヰル仙人掌ノ上ニアル小サイ港ハ霧デ彩ラレタ森ノ首環ヲ捲イテヰル
世襲ノジャム壺ノナカデトンデヰル青イトンボハ世襲ノジャム壺ノナカデトンデヰル
踊子ト針鼠ハ高尚ナ発弾ニ似テヰナイ合理主義デアル踊子ト針鼠ハ高尚ナ発弾ニ似テヰナイ
シテイ・ホテルノ果酒ハ噴水ヲ満腹サセル月ノ卵ヨリモ青イシテイ・ホテルノ果酒ハ噴水ヲ満腹サセル
春山行夫「花ハ花」p.170、『シュルレアリスム読本 2 シュルレアリスムの展開』、思潮社、1981年)

 しかし「A+A」形式は、実はここで完全に遂行されている訳ではないことにも気づかれるだろう。上の引用で言えば一行目、「喜劇俳優ノ花束ハ半円形ノ長椅子ニ似テヰル」という節が「A」と目されてはいるけれども、二度目の「A」の前には「黄昏ニ喪エル」という状況設定が新たに追加されている訳だから。二行目以下も同じように「仙人掌ノ上ニアル」「青イトンボハ」というように、なにかしら新たな言葉が追加されていく。
 同一の文の反復の間にわずかにすべりこむこの追記によって、それこそ大股の「フォルマリズム」にもどうやら、遊びらしいものが生まれるようだ。その差異をひとつひとつたしかめるように読むことの不毛さも判りつつ、屈折のレベルが行ごとに分かれてみえるのもたしかだ。「青イトンボ」の行はトンボの動作を説明し直しているだけのようだけれど、「小サイ港」の行はとくに「霧デ彩ラレタ」や「首環ヲ捲イテヰル」がかかる対象の不確定さによってそれほどあっさりとは解決しがたいものだろう……というような。詩を素朴にイメージの面から追うなら、動作主が自分自身のうちに縮まっていったり、ひとつの都市像が分裂していったりする、その縮まりや分裂の起点が文法上では「AはA」の「は」、「A+A」の「+」の箇所その周辺にあたる。詩人の執拗な興味もきっとそこにあるのだろう。「溺死ハ溺死」「ペルシャペルシャ」といった十全な同語反復の行が一方ではあり、上に引いたような不純性を受け入れる行を他方でともないつつ、「花ハ花/ e t c.」というタイトルへ向けて言葉は続いていくだろう。
 モダニズム詩を読んでいるとき、しばしばそれらが紙の原稿用紙にペンでかかれたものだということを忘れる。春山行夫の代表作「ALBUM(白い少女)」でさえ、それは、原稿用紙にじかに84回「白い少女」とかきつけられたものだった筈だ、と中田健太郎は注意してくれている*4。そのようなコピペしえない時代の手の労働から振り返ってみるとき、この文でわずかに取り上げたいくつかの詩にみられる怠惰な側面もまた違う表情を帯びて感じられるかも知れないにせよ……。「POESIE」と同じく「花ハ花」という詩もやはり、どこまでも引用することに対して確信をもたせない、そんな作品であるのはいなめないようだ。この行が決定的だ、とは間違ってもひとに思わせない、そんな……「頷かれない」詩であるからこそ、かえって明日にはまた今日つかんだものが見えなくなるかも知れない危険さえ忘れて行うハックアンドスラッシュの悪い楽しみも拒みはしない……というと好意的に言いすぎたことになるだろうか。いや、その通りではある。それでも眼が滑りがちなページの上から、「実験的」とかいうあまり冴えない褒め言葉に身を任せるよりもずっと強度を期待しうる気持ちは、モダニズム詩を読むことのなかにもまだ死にきってはいない。

*1:http://web.archive.org/web/20040615084109/http://po-m.com:80/inout/4_01ogasawara.htm

*2:小島輝正「『詩と詩論』における翻訳・その一、二例」、『シュルレアリスム読本 2 シュルレアリスムの展開』、思潮社、1981年

*3:ここでは、「外国の詩を翻訳する」ことと「その翻訳された詩に似た詩を書く」(鶴岡善久「瀧口修造論」pp.144-145、『シュルレアリスムの発見』、沖積社、2009年)ことの性急な往復運動として見られた日本の前衛詩上の営為を念頭においている

*4:中田健太郎「言語の過剰と詩の抒情」p.203、『ユリイカ』4月号、青土社、2008年