マンガのなかの手紙、マンガのコマのなかで読者にも読まれる手紙、というのはひとつの決定的な主題選択のような気がする。三浦知志が「『中間領域』としての手紙」という論文でかいてくれているのは、まさにマンガに登場する手紙という物質についてだった。
 絵としてかかれた手紙は「絵画でもなく言語でもない」、まるで中間領域に場を占める独特な表象(中田健太郎)であるというきらめく直感に導かれながら、手紙とマンガについて考えられていく。アリソン・ベグダルや東村アキコといった現代のかきてのケース、そして19世紀後半のリチャード・アウトコールトの作品における手紙の見せ方と、同時期の新聞記事との影響関係を検討しながら、マンガのなかで手紙はけして最初から「読者に対して」開かれたものではなかったことが明らかにされる。この遡行的な議論の流れはいわば、当初は小道具としてコマのなかにあった手紙(その文面は読者には読めないほど文字が小さかったり、分量も短かったり、内容もあくまで公共的な質のものだったという)が、やがて読者のがわへ可読的に開かれていく道ゆきでもあるだろう。手紙はマンガのコマのなかで「読者に対して」開かれていく。そういう歴史があったのだと教えられる。
 手紙そのものと、それを読むキャラクターとがいっしょにコマのなかにえがかれることで、読者は一方ではキャラクターの眼を想像的に通すようにして手紙を読む。だけれどもまた他方で、手紙は、その文をかいたひとのことをも思わせずにはいられない。手紙を読むキャラクターの視野と、その手紙のかきての指づかいとの間で、どちらかにのみ入り込むことなくさまよっていられる思いを、マンガのなかの手紙は読者に対して可能にすると言われているようだ。

 手紙は、もちろんマンガだけでなく、演劇や映画、テレビドラマやアニメなど、音声をもつ物語メディアにおいても用いられる道具であるが、これら音声メディアにおいて手紙はふつう音読されるものである。(……)われわれは、手紙が音声となって表現されることに慣れているといってよい。
(三浦知志「『中間領域』としての手紙 ――マンガのなかの手紙と作中人物の視点について――」pp.74-75、『ナラティヴ・メディア研究』第6号、ナラティヴ・メディア研究会、2017年)

 ここで手紙と声という問題設定が取り上げられることは自然なものでさえあるけれど、議論から逸れて、私がふと気になるのは手紙の肉筆性ということだった。マンガのなかで登場する手紙の文面が、規定のフォントなどでなく、手書きでじかに表現されるところでそれは決定的なものになる。どうしてだろうか。
 マンガのなかでキャラクターが手紙をかくとする。いや、ここにいたっては、手紙のかたちでなくてもきっといいのだろう。キャラクターがマンガのなかで、なにかを手書きする。それが文章にせよ、イラストにせよ、どちらでもいい。その手書きという行為の帰属はいったいどこへ向かうのか、ということだ。あまりにも見え透いた答えを一応呼んでおくなら、そのマンガをかいた現実の作者だ、ということにはなる。しかし、マンガのなかで、マンガのキャラクターが、その子自身の手によってすらすらとなにごとかをえがいてみせるとき、必要とされてあるのはそうした答えではない筈だ。少なくとも、情動的にはそうだ。危うい比喩を使うなら、それは幽霊の残した指紋のように感じられるものだ。有無を言わさず物質的な塊という信憑が、マンガのキャラクターの手書きの筆跡からはいつまでも立ち上る気がする。その手書きの質というのは、作者と作品とキャラクターとの間、そのどこかで練り上げられた想像的な指紋をきっと刻印している。
 このような、ただでさえあやふやな話に関して、具体的に議論を進める手立ては私にはないけれど*1、手書きであるということそのものがやはり、どこまでも汲みつくせない、解消不能なものをもっているように思えてならない。

*1:あるいは画像の認知に関する伝統的な議論、「~として見る(seeing as)」と「~のうちに見る(seeing in)」というふたつの構えを、キャラクターが手書きした絵に対しても「悪用」するようにして考えていけるかも知れない。この場合、比較項は画像の物質的素材(紙上のインク)から一段繰り上がって、現実の作者に帰される筆跡とキャラクターに帰される筆跡ということになるだろうか(しかしそうした重なり合った見方こそマンガが読まれる際の通例ではあるだろう)。それでも、それ自身かかれた存在であるキャラクターが、さらにその子自身の手でべつのものをかく、という姿勢(それが「見立て」にすぎないと言われようと)の果てにあらわれる「マンガのなかの子がマンガのなかで現に手書きした絵」という質について――絵の質以上に、この絵はこの子がかいたのだとほとんど信じさせることの質について――簡単に行為主体を階層化させることなく思いをあらためることには、いつでも意味があるに違いない。