「語り」がある。それはいい。しかしそこから「語りがあるならその語り手もいる筈だ」という信念がついてくる。言い換えれば「語り」は必ず「誰かの語り」として受け取られるのだとも言われる。ひとにはそもそもなにかを「語り」として受け取ってしまうときが確実にある、ということが問題なのだとは思う。そして「語り」としてひとたび受け取るやいなや、それを語っている「誰か」なしでは済まない、ということが。
 「語り手なしの語り」という表現さえ、すでに常套的な発想や技法と思われてしまうときだ。では、無人称、非人称、無主体、無名性……といった語りのステータス(これらはある時期までの「スターたち」でもあった)に今一度声がかかるだろうか。だけれどもこうして単一的な主格を打ち消すのにちからを与えてきたであろうステータスを挙げていきながら、それらもまた一個の立派な主格単位として受け取りがちであったことを私は認めなくてはいけない気持ちになっている。こうしてちからなく、まるで一個の用語のように、いやまさに一個の用語のように羅列してしまうなら、とくにそうだ。「どこでもない場所」と言って、そう心につぶやくうちに漂う気分が「どこでもなさ」を充分に領土化してしまうように。「無人称……という語り手」「無主体……という語り手」を想定しがちであったし、今もあることを認めなくてはいけない。やはり「想像」に手を染めてしまうことが問題でもあるし(バタイユの「痰」もブルトンの「透明な巨人」も人称化しえないネットワークのために生み出された語句だった筈なのに、それらにさえ虫歯の悪魔同然のキャラクターとして「人間的に」語らせるのは想像のうちにたやすいだろう)、語りが起こる局面にどうしても踏みとどまりえない。
 「コウモリであるとはどのようなことか」(トマス・ネーゲル)に似て、語りを聞き取っていながら、同時にそこに語り手というステータスのいかなる介入もないことを感じるとはどういうことだろうか、という。なんらかの語りを聞き取っておきながら、その語り手を厳密な意味でなしで済ませることに、ひとはほとんど耐えられないのではないだろうか、という。


 こうした、ほんとうにあてどない考えを道連れとしながら、「物語経験の時間性」(森本浩一、『ナラティヴ・メディア研究』第5号掲載)、『ミシェル・ファルドゥーリス=ラグランジュ 神話の声、非人称の声』(國分俊宏)、「モダニズムの地平―ブルームズベリーのエクリチュールー」(要真理子、『フィルカル』Vol.1 No.2に掲載)というみっつの文を読んでいた。それぞれ語り/語り手についての集中的な態度が含まれた文だった。
 ここで詳細に感想をかける訳ではないけれど、なかでもファルドゥーリス=ラグランジュは、モーリス・ブランショ以後の非人称性(「ざわめき」)とシュルレアリスムの一人称性(「打ち明け」)とを同時にその咽喉に担うとでもいうような様相にきらめきが見つけられるようだ。著者はエミール・バンヴェニストのよく広められた一人称に対するテーゼ「私とは、私と言う者のことである」を経由しながら、逆に「私」と言う前はまだ誰も「私」ではない、ひとは「私」と話すたびにその都度「私」になるのではないか、という。このようにして、「私」というステータスに一回ごとに「なる」という憑依の行為を、発話の時間から掘り起こしてみせる。「私とは違うものになるためにこそ『私』と書く」*1という胸がつまるような一文に、この本の集中的な向かいが示されているだろう。
 抄訳されたファルドゥーリスの小説は、ルネ・クルヴェルの暗い華やかさやロベール・デスノスの行進的なフレージングのそばを横切るように思えながら、その圧倒的に硬い視線に驚かされる。神話的な毎日……という言い方を私は思い浮かべた。しかしそんな言葉も矛盾撞着ではなく感じ取られていくファルドゥーリスの小説は、「雨の多い時代」というはるかな視線のそばから「台所の流し」という卑近を排除しないでいてくれる。そして、それまで続けてきた小説のなかで突如、題名つきの短編を「自分の報告」としてかきだす……いや、かきなおす。語りには語り手がいる。その語り手が、私、と言ったかどうか。聞き違いだったかどうか。

*1:國分俊宏『ミシェル・ファルドゥーリス=ラグランジュ 神話の声、非人称の声』p.205、水声社、2017年