ある芸術作品は、歴史を通じて、音楽であれば演奏されたり、演劇であれば上演されたりする。ときに演奏者や役者、舞台をかえ、脚本をアレンジされながらも、ひとはそれらをあるしかたで同一の芸術作品として受け入れているようにみえる。そのような芸術作品は、しばしば同一時刻に異なる場所で複数出現するようにさえみえるけれども、複数の場所にまったく同じ存在があらわれる(ようにみえる)ことを普遍者概念に訴えることなく説明しようとする理論的努力が、ここで「まばらなメレオロジー唯名論」とされている。
 ボリュームがすごいので一週間ほどかけて読んでいた。圧倒的に明晰で、この分野の議論にまったくあかるくない私にも話を追っていくことができた、と思う。以前眼を通したデイヴィッド・マレット・アームストロングの『現代普遍論争入門』も、この論文を読んだあとであればもっと濃い実感を与えながら読み直せる気がする。西條玲奈論文に話を戻すと、議論の上ではそれほど重大な部分ではないかも知れないにせよ、バートランド・ラッセルの類似性に関する問い(4.3「ラッセルの問題を回避する」参照)への応え方はトリッキーでありつつ、同時に納得もさせられた。
 あるものとべつのものが似ているということをそもそも性質という普遍者なしにどう解決するのか。作品をそのあらゆる具体的な「出現」(演劇であれば上演、音楽であれば演奏)の集まりとし、ひとつの「融合体」とみなすまばらなメレオロジー唯名論においても、同様の問いが持ち上がるとされる。この問題に対しては、演劇のケースでいうと「ある上演が特定の作品の出現であることを、類似性によって分析しない」(p.91)というのが論者の提案する解決策となる。すなわち、ある「出現」が特定の作品の融合体の部分とみなされるための条件を、制作意図と因果的源泉(4.2「まばらなメレオロジー融合体の部分であるための条件」参照)によって先に決めてしまう。すると「出現」間の類似性とはむしろ結果的に生じるもの、見い出されるものになるだろう。条件がいっしょなのだから、似て見えるのも当たり前だ、という訳だ(……)。
 本論で批判対象に挙げられている説のなかでも、ジュリアン・ドッドの提案する、「芸術作品発見説」(作品とは創作されるものではなく、ただ発見されるばかりのものだという説。1.3「普遍者説への批判を検討する――創造のパズル」参照)などは作品を誕生させる作者の唯一性、あるいは作者という神話とその権能を攻撃したい者たちには、興味引かれるものと映るかも知れない。しかしドッドの見るところ、作品とは端的に普遍者を指す。つまり作者に見つけられずとも理論上、すべての作品はタイプとして、最初からできあがったものとして永久に存在し続けてある……というところまで聞けば、ひとは顔色を変えるに違いない。普遍者はある時点から存在を始めるという種類のものでないとするならば、これまで歴史上に姿を見せた作品だけでなく、未来にこれからあらわれる筈の作品すべてさえ、すでに存在していることになるだろうから(私には、これも新手の――どころか懐かしい――神話に映る)。そういった、個々の理論の解説も煩瑣をいとわず行ってくれている。また、論者は作品概念に多義性を認めることを強調する。その結果、同じ作品名で言及する場合でも文脈に応じて、原作者の脚本そのものを指したり、数世紀後に大きくアレンジされたバージョンのほうを指したりできる。このような指示の柔軟性(=実感にそぐう)も、まばらなメレオロジー唯名論の利点とされる。こうした広い射程を狙われた理論のうちで、類似性の箇所だけを重く読もうとしてしまうのを恥じつつ、どうしても私の引き寄せられるのはそこでもある……。
 モリス・ワイツの「美学における理論の役割」とそれに対する批判などを思い浮かべながら、やはり類似というもの、なにかとなにかが似ていること……なんとも言えず似てみえるもの……単に似ているだけでなくきわめて「深刻に」、さらに「ぼろぼろに」似ているということ……そのありようへの関心はこれからもほどきがたい係争点としてあるだろうことを自分自身、予感しながら。