どっとライブでデビューした子たちの初配信を見ていた。「ほら! 私、かわいいでしょ!」と言っただけで「イキりかな?」と言われてしまう時世ではある。時世て。いやまあ。撤廃されつつある「ドヤる」から、その意味論的空所補充のように現れた「イキる」に継承された含意がなんであれ……そしてまた「イキる、イキってる」が今はむしろ好意的な用法に変わりつつあるからといって、自分をかわいいと認めちゃってる子の自賛を眼の前でそのまま受け止めることに大抵の人間は耐えられはしない、そんな事実を上のやりとりは証し続けている。しかも「私、かわいいでしょ!」「イキりかな?」から始まるやりとりさえ、しばしば最良に聞こえてしまうことも、認める。華やかさにまぎれて「それで合ってる」ときさえあると、危うくも思ってしまうこともある。いや、もう今現在のたのしさの水準は話し手の活発を「イキる」とみなし、みなされることをその大きな条件として前提し、運んでいるのでさえあるのだろう。その最良はしかし、やむにやまれぬ最良、のっぴきならずも最良……なのであって、けして人間の弱さを根底からカバーするものではないこともたしかだ。ここが、人間のゆびいっぽんで鳴らす算盤だ。なにを言いたいかよりもなにが言えるかを数え上げさせる切ない理由の空間だ。実際、「私、かわいいでしょ!」という全身を、真正面を、どうしてそらさずにはいられないのだろう。自賛に対して「かわいい!」で返すのは「面白くないから、センスがないと思われそうだから」という気を使った(誰に?)答えはここでは無用だ。そらすなと今更言いたい訳ですらない。誰だって真正面から受け止めたいと思ってはいる筈だから。そう決めつけておく。
 恥ずかしさ、勇気のなさ。圧倒されて、あるいは声のでなさで。わんわんわんわん。にゃんにゃんにゃんにゃん。新しい病気にかかることさえできないほど今は瀕死の(瀕死とはもちろん「当分まだまだ死ねません」という意味だ)ロマン主義的に結語をかきおいておくならば、誰が「よう見とる」のか、そして「よう応えた、かも知れなかった」のかは発話者から放たれた(私、かわいいでしょ)というつぶやきが、いちばんに知りにいくだろう。