コンタクトを外すと、コンタクトがあらわれる

 マンガのなかでキャラクターはなにを見ているのだろうか。そんな問いをマンガ研究のなかから見つけたりする。逆に言うと、キャラクターには「見えていないもの」として扱われるものがあるのだという。
 たとえば、フキダシやコマを縁取る枠線、多くの漫符や象徴的表現(人物の背後の花の絵など)。フキダシのなかに台詞が印刷されてあるからこそ、マンガの読み手は誰がなにを言っているのか読むことができる(そして、そのようにまず視覚的に台詞を「読めること」が、それぞれのキャラクターの音声ならざる声として「聞くこと」をもゆるすのだとして)。しかし、マンガの登場人物たちはフキダシを目視してはいないだろう。少なくとも相手の台詞をマンガの紙面という媒体越しに見ている訳ではないし、フキダシ越しに印刷された言葉を聞いているのではない、という訳だ。同じように、自分たちの居住する空間を区切るコマ枠も、マンガの読み手のようには意識することがない。からだの震えを示すぶるぶる線を「あ! この手の横に二本、長いのと短いのがあるね」などと、描線レベルでマンガのキャラクターが視認している訳でもないだろう。そういった不可視のものへの通念があるからこそ、パロディ化して遊ぶこともできる。普段は見えない(ということになっている)コマ枠をキャラクターが捻じ曲げたり、枠に穴をあけて数コマ先までワープしたり、フキダシを手でさわったり、というようなキャラクターの側からは高階にあたる表現を相手取った遊びも可能になるのだろう。
 それらを認めてみた上で、けれど、マンガのキャラクターたちに「でも実際、なにがほんとうには見えていないか」を尋ねることはけして自明なことではありえない。「フキダシやコマの枠線は普通、マンガのキャラクターには見えていない」という事態の精確な意味さえ、しばしば私にはつかみがたい気がする。それは結局、「キャラクターの眼はなにかを見ている」ということにどんな見解を差し戻すべきか今のところよく判らない、ということかも知れない。


 見える見えないの話だけではない、台詞ひとつとってもそうだ。「リューシカ・リューシカ」(安倍吉俊)の印象的なカットをここで思い起こすことができる。

f:id:charonmile:20180512142419p:plain:w400
安倍吉俊リューシカ・リューシカ』1巻p.23、ガンガンコミックスONLINE、株式会社スクウェア・エニックス、2010年)

 「リューシカ・リューシカ」では各話の頭にこうした表現が差し込まれる。その回のタイトルが表示され、ときにポーズをとり、ときにコスプレをしたリューシカがなにごとかを語る。これは結局、扉絵というステータスのもとにあるのだろう。しかしそう判断するのをためらわせるのは、(例外もありつつ)こうしたタイトルコール絵が前後のコマのストーリー上の流れから地続きでかかれているから、というのもある。ストーリーのなかで、そこだけ急に扉絵になったという印象を受けるところもある。だけれどもそれ以上に気になるのは、リューシカとフキダシとの関係ではないだろうか。各話からためしに拾い上げてみよう。すると、「リューシカリューシカ いつかはどこかへ?」「リューシカリューシカ せかいはしんようならない」というように、作品名(中黒がない場合もある)が必ずコールされて、その回の内容に沿ったようなコメントがある。だから、これはある種サブタイトルを、マンガのなかでキャラクターにじかに言わせている表現だ、ということで落ち着くのかも知れない。また、扉絵をアイキャッチとして使用していると受け取れそうなところもある。
 こうかいてみて、落ち着いた気はまるでしない。なにが引っかかるのだろうか。ここで直観的に言ってしまうなら、上のようなフキダシのなかの言葉は、「リューシカ・リューシカ」というお話に対してナレーション(この用語が正しいかどうか)の質と立場とを強く帯びて聞こえるからだと思う。しかし、同時にフキダシは直接的にリューシカのくちもとへその言葉の帰属を示してもいる。だから私にはふとこう見える、ナレーターの声とリューシカのくちとが短絡されて見える、と。これはやはり乱暴すぎる言い方だろう。それにしても、こうした表現ひとつの前でさえ、いつまでもさまよってしまうのであれば……次にどこへ行けるのか、判ったものではない。


 そうしている間に「ゆるキャン△」を12話まで観終わった。同意しかねるところを先に言う。5話「二つのキャンプ、二人の景色」。リンとなでしこが互いの夜景を交換し合い、そのあとだ。夜景をともにし、言葉をともにし、離れていても同じものを通信によって分かち合う、それはいい。けれど、遠くべつべつにいるふたりを端的にひとつの同じ絵のうちに同居させる、このしかたには同意できないものだ。地理的な隣接性に依らない「誰かと時間をともにする」というありかたに込められていた筈の意味が、このように一義的に提示されてはうやむやになってしまうのではないだろうか。序盤の絵的ピークを担うことが期待されていたことは伝わるだけに、私はそういう感想をもった。
 それよりも、9話「なでしこナビと湯けむりの夜」のほうに好感を抱いた。ここではリンは単身、上伊那郡までキャンプをしに行く。一方で風邪を引いて自宅で寝ているなでしこは、リンの旅先でのナビをしたいと申し出るだろう。遠く離れた者からのナビは、なでしこをお見舞いに来た千明も巻き込んで、ずいぶんとにぎやかなものになる。なでしこたちの「ナビ」とは結局LINE上でのやりとりだと思われるけれど、スマホに打ち込まれた本来は無言のテキストが声優たちによってひとつひとつ声にだして読み上げられる*1。スクーターでキャンプ地を目指すリンを眼に追いながら、耳は友人たちが織り成すラジオの周波数に合わせてもいて。実際、アニメのうちでこうした遠方からの声がわきあがるとき、「これはほんとうはLINEでのやりとりであって……」というような迂回の意識など鑑賞者は必要としないだろう。
 スクーターで走行中のリンがいる。すると、アニメの同じ画面上にLINE画面を模してなでしこのアイコンが現れる。「薪ストーブ屋さん」が駒ヶ根にあることを伝えるなでしこに、リンの「へー、ちょっと寄ってこうかな。」という返信がやはりアイコンつきで現れるだろう。千明もまた会話に混ざってくる(ああ、そして一蹴される……)。もちろん、リンはスクーターで走りながらこんなやりとりをしている訳ではない。この会話はスクーターに乗り込む前にあらかじめ行われている筈だ。だから、ふたつの時間の流れはここで、ひとつの情景のうちに短絡させられていると言える。LINEは過去時間に、スクーターで走っているリンは現在時間にあるのだとまとめてもいい。たしかにその筈なのに、スクーター上のリンにとって、なでしこたちの言葉とはつまり「回想」なのだ、と捉えることにも強く抵抗をおぼえる。どうしてだろうか。それはやはり、アイコンつきメッセージの送受信が訴える強い「まさに今」性もあるけれど、それ以上にアニメ画面の上でリンがリアルタイムでLINEに反応しながら走る道を決めて見えるような様子のせいだろう。リンの耳元をにぎやかにいろどり始めている声は、過去と現在とを短絡する「画面の上での無線性」をこそ入り口にしてくるようだ。
 LINEでのやりとりと、スクーターをいま現に走らせているリンとの間の「実時間」的な時間差があきらかなのは違いない。けれど、こうして見ているとそもそもその時間差というものがよく判らなくなってくるものだ。局所的な場面を、大きく取り上げすぎただろうか。それでも、5話のやや性急な美意識よりははるかに、私にはこの9話のナビをめぐる情景のほうが豊かな表現を得ているように感じられる。


 ところで「マンガのキャラクターに見えていないもの」についての話からこの日記は始まっていた。アニメに同じ話は越境できるだろうか。これをかんたんには言えそうもないし、作品ごとに、どころか場面ごとに見つめることを大事にしている、そんな、信頼できる誰かの言葉が必要ではある。先にかいたように、キャラクターがなにかを見ている、ということがなんなのかすら、いまだはっきりとつかまれてはいないのだから。ただ、ちょうど「ゆるキャン△」を観ていて、あらためてそういったことを思うところがあった。9話で霊犬・早太郎のおみくじ売り場にリンが訪れる場面だ。その値段の高さにいったんは売り場を去るリンは、やはり後ろ髪を引かれて早太郎を振り返る。すると早太郎たちは明らかにリンのほうを見返していたのだった。

f:id:charonmile:20180512155707p:plain:w500
f:id:charonmile:20180512155732p:plain:w500
f:id:charonmile:20180512155752p:plain:w500
(「ゆるキャン△」第9話「なでしこナビと湯けむりの夜」、©あfろ・芳文社/野外活動サークル、2018年)

 この次の回、10話「旅下手さんとキャンプ会議」でも、早太郎はアニメにでてきている。そこでは組み立てテーブルに乗せられた一体の早太郎がリンを見上げていた。なにか言いたげなその顔に「なんだ、ばかやろう……」とひとりごちるリンの顔。そして次のカットでは早太郎は向こうむきになっていたのだった。
 こうした流れにどうしても(現実準拠的な)整合性を求めたいなら、カットがリンから早太郎に切り替わる間に、早太郎のマスコットをリンが手で逆向きにしたのだと想定はできるだろう(私はそんな面倒な見方はしない、観ている最中の思いは「あっち向いたわこの子」程度のものだ)。しかし、おみくじ売り場でリンが早太郎たちと出会う9話ではそうもいかない。リンが、あの早太郎たちを手でいちいち向き直させた訳ではないだろうからだ(そもそもそんな整合的な想定を拒否したところで、上のような絵は眺められるべく提示されてある筈だ……)。早太郎たちが「いかないで」してるように感じた、そんな心理的な余韻が、リンにいわばこんな風に見せていた、と無理やり言うことは禁止されていないにしろ、やはり演出の端的さに対して迂遠すぎるし、鈍すぎる。個々のフィクション、個々の力学や出来事に即して、その作品世界内で起こりえそうなこと、起こりえなさそうなことを考えつつ、絵や演出や言葉の水準を受けとめていくことにはもちろん意義がある。ただ、「ゆるキャン△」9話の上のようなシーンに、なにか、過剰に立ちどまることはないとも思える。だからこうした場面はふつうそういうものだとして、ふっ、とした軽いくすぐりのように受けとめてひとはアニメを観ると思う。いちいちそこでとどまって、意味を付け足すことはないと思う。そして……たしかに、いちいちそこでとどまってなにかさぐる必要などないところでしかし、一度とどまり始めると、どうにも解消しえない絵と意味の痕跡が浮き上がってしまうようだ。リンは、早太郎をこのように見ている。それは上に引用した映像ではっきり示されてある通りだろうとも思う。しかも:とはいえ:「このように」、とはいったいどういうことだろうか。

*1:「われわれは、手紙が音声となって表現されることに慣れているといってよい」(http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/04/28/185202