「チャーリング・クロス街84番地」

 これがある種の「孤児院もの」に映ってしまう理由を、贈り物の質とその差に求めるべきではおそらくないのだろう。たしかにイングランドの乏しい食料配給制のもとで暮らしているフランクたちへ届けられるのはハムや野菜や果物の缶詰といった食料品であり、そのお返しにヘレーネへ贈られるのは手作りのテーブルクロスではある。けれど、なによりこれは、人数の問題ではないのか。ひとりの手紙の書き手は、ひとりの手紙の読み手を持つ、という構図は早々に維持できなくなる。ヘレーネがひとり手紙を綴り、送るのに対して、それを受け取る側はフランク個人をあらかじめ超えて、古書店の(擬似家族的でもある)同僚たちでもあり、チャーリング・クロス街84番地というアドレスそのものとも見える。実際、ヘレーネ宛の手紙には、徐々に古書店の同僚たちの手によるものも混じりだす。非対称性はまずもって、このあからさまな書き手/読み手の人数的な不均衡に求めたい。

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(「チャーリング・クロス街84番地」、 (C) 1986 Columbia Pictures Industries, Inc.、1987年)

 後半、ヘレーネとフランクがカメラの正面を見つめながら手紙の文面で語りかけるパートがある。言わんとするところは明瞭だ。交互にふたりの顔を切り替えるカメラは、「あたかも眼の前に相手がいるように互いに語らい合っているのですよ」と愚直に伝えようとする。互いの台詞は、相手の顔を容れたカットに余韻を落とすように割り込むこともなく、言葉と顔はそれぞれの画面で完結している。撮影上の技法をなにも知らない私でさえ、ここに「奇矯な冒険」として語られるようなものはとりあえずないように思われる。
 とすれば、このヘレーネとフランクの交互の切り替わりを受けて、カメラがなぜか水平に、水平に、ずれ込むように感じ始めるのは鑑賞者の側の、つまり私の問題なのだろう。ひとりはニューヨーク、ひとりはロンドンに住んでいることを知っているがゆえに、どれほど視線の向こうに相手を想定する詐術を繰り返そうと、一画面にふたりが同居して映ることはない、と鑑賞者は知っている。しかしまた、視線の向こうに相手がいるという信憑は、対話相手の顔を交互に映すことでカメラが絶えず裏表を忙しく往復するようなべつの錯覚を、思いがけず鑑賞者に分け与えてくれる。正面をアップで映し続けるカメラを裏切って、観ているこちらのからだが水平にずれていくような錯覚はおそらくそこから与えられる。視線の先に互いを認めながら、けしてひとつの画面に同居することだけはないふたりの人間を、一望しうる視点などないということを知りつつ、からだは想像的に、あがくように回り込んでいく。