聞きたい声だけが

 孫引きになるけれど、ミシェル・シオンは「映画では登場人物が遠くにいるのに声はすぐ近くに聞こえることがよくある」というケースを引きながら映画論をかいていたようだ。たしかによくあると思う……ぱっと今、思い出せないんですけどね、というやつだ。代わりに思い出されたのは「ER緊急救命室」のどこかの回で、「聞きたい声だけが聞こえる」という映像のありかたについてだ。私はなにか、変にそれが気になっていたと思う。
 映像は、病院のエントランスを入って、受付や事務室や待合室がごちゃごちゃ並ぶ広い室内を撮っている。患者、見舞客、ドクター、アシスタント、いま飛び込んできた救急車のひとびと、警察、医療業者などが入り乱れて、声はがやがやとしている。カメラはその室内の中心に据えられてあるようだ、そして360度をゆっくりとその場で回転していく。ここで、おや……と思ったのは、カメラにひとが捉えられるやいなや、そのひとたちの声が周りより大きく近く聞こえるということだった。カメラが離れるとさっきまでの会話は遠くへ逃れていく。新しく画面に入ってきたひとびとの会話が今度は近寄ってくる。これを奇妙だと思えるには、カメラとマイクの位置は同じところにあるものだ、という前提がいるだろう。重要なのは、カメラ自体はその場で回転して映しているだけなので、室内での俳優たちに近寄ったり遠ざかったりはしていないだろうから。だからこれは、カメラから離れて、マイクのほうが俳優たちの会話をひとつひとつ焦点化してみせているのだろう、と思った*1。ひとが集団のざわめきのうちから、聴きたい会話を耳で選り分けようとするとき、その会話主を見つめ耳を志向的に向ける。そんな平素の人間の身振りが、こうしたカメラワークと聞こえてくる音の選別にもちろんオーバーラップされてもいるだろう。
 私には愛せない、同意もできない映画であったけれど、「夜明け告げるルーのうた」ではラジカセから流したテープがそのまま劇伴として機能していた。主人公のカイがラジカセを操作し、テープを再生し、すると音楽が鳴り出すのだから、このテープは劇中人物の耳にまさに聞こえる音である筈だ。しかしまた、ラジカセのある部屋をすぐに飛び出して、海へ行くシーンに至っても、音楽は劇伴として地続きに流れ続けていく(劇伴である以上、当然のことなのだけれど。しかしなにが当然だろうか)。こうした場面からも、劇中人物の耳と、フィルムの前のこちら側の耳とのありかたについて、通約不可能性をあらかじめ先取りにするのではないやり方で、なにか聴きとっていけないだろうか。

*1:具体的な撮影方式は知らないからそう自分で思っただけではある。あるいはこのマイクとは想像的なものであってもいいのだろう……私が観たのは吹き替え版で、その場合日本語でアフレコを行い、編集を経てすでに録音上での整序も通っている筈だから。原作はどう撮られたものか。