「ブギーナイツ」

 この映画のシーンでひとをぎょっとさせるのは、拳銃のピタゴラスイッチでまとめて死ぬところでも、コカイン上の母娘契約でもないだろう。「シスター・クリスチャン」を無視した子供の爆竹に、いちいちスーパーヴィーンするまで馴致化した役者のからだなんかでももちろんないと思う。そうではなくって、足が心底冷える箇所といったら、アンバーとともに去っていくエディを見送るジェシーをおさめる十数秒に決まっている。少なくとも私にはそうだ。それは、作品のために本来撮られるべき時間尺、ここまで撮ったらあとはもういいですよ、を超えて、ショットの途中からカメラが停まらなくなったという訴えを帯び出してみえるからではないだろうか。

f:id:charonmile:20180530121527p:plain:w400
f:id:charonmile:20180530121600p:plain:w400
f:id:charonmile:20180530121619p:plain:w400
f:id:charonmile:20180530121644p:plain:w400
f:id:charonmile:20180530121715p:plain:w400
(「ブギーナイツ」、 (C) 1997 New Line Productions, Inc. )

 ジェシーの視線の質は、さっきまでおしゃべりしていた相手(エディ)を見送る、惜別と当惑の混じったものであって、それはいい。そしてその直後ジェシーの顔は、鑑賞者から見て左側へ向かう。「エディへの関心が切れた」という合図。と、ここでカメラは切り替わり、今度はエディとアンバーが連れ立って出ていった部屋を映すことになるだろう。映さない。なぜならカメラは切り替わらないからだ。ジェシーは画面に残る。この残り方はすでに過剰に思える。彼女の顔は真後ろへ曲がっていく(斜めから撮影されるジェシーの体勢からはむしろ「真横を向いた」というほうが妥当だとして、鑑賞者の側からはそう見える)。つまり「振り向いた」という、ただそれだけのことが、しかもさらに振り向いたその顔を再びこちらへ戻しさえするジェシーの首の動きが、ここに至って、どこまでもありえない表情を帯びてくる。
 顔を横に向け始めたジェシーの首の筋肉そのほとんど構文論的な努力すら、作品は意味論として貪欲に利用する。結局、この一連のカットには「後ろを振り向き、視線を元に戻したジェシーは、バックという新しいひとを見いだすことになる」という物語上の役割もちゃんと用意されてある。しかしそれでは、枷としても足りないだろう。ジェシーに与えられた十数秒がなにの制止を制止し、なにの制止に制止されてきたのか、いつその顔が画面から抜け出し、どうして戻ってこれたのか、明らかではない。