「HOUSE ハウス」(1977年)

 終盤、クンフーが「あっ 唇が……大きすぎる……!」と叫ぶ。クンフーが見ているのは、巨大な唇だ。それがしゃべっている。ガリ、ファンタ、クンフーの前に屋敷の怪異がいよいよあらわになり、セットは使い潰されていく。ところで「唇が大きすぎる」というのは、そもそも、台詞なのだろうか。

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(「HOUSE ハウス」、(C)1977 東宝

 もう少し掘り崩してみる。おそらく「なんて巨大な口……!」であれば、私は気にしなかった。「あっ」という驚愕の声であれば。もしくは「見て、あれ!」と、かたわらの友人に呼びかけるものであれば私は知らないふりをしていくこともできた、と思う。「唇が大きすぎる」とは、私から直観的に言えば、この合成映像を外から鑑賞しているひとの言葉のようだと思えてならない。フィルムを外から眺めながらこのシーンのこの合成映像がいやにでかいことに今気づいたから言いました、というような「感想」ないし「指摘」ないし「コメント」の、これは水準ではないだろうか。もう少し踏み込むと、このクンフーの言葉は台詞のステータスを持ち合わせぬものが、いきなり準備もなしに映画に侵入してしまったもののように思われる。これはほとんど、ニュアンスの問題なのかも知れない。また、こうした瞬間から多くの発見を引き出せる筈もない。こんな台詞のひとつふたつくらいあるでしょ、と軽く流しそうになる、それくらいの、微妙な微妙な……けれど聞かなかったふりをすることも結局はできない、割れた水晶玉のような音声だ。自分が映画のなかにいることを忘れた者の口からだけ飛びでることを許可された、そんな言葉だ。


 映画のなかのキャラクターに聞こえる劇伴という問題に以前ふれた*1。この映画も、気にかかるところがいくつもあるけれど、たとえば序盤で"君は恋のチェリー"が劇伴として流れだすとき、映画の「内側」からいっしょに口ずさむ声がしただろう。あの1階の靴屋でリズムをとっていた男性だろうか、役者の歌が一瞬だけかぶさってくるところだ。しかし、かぶさってくる、という事態把握は正しいのかどうか。このような場面を前にした際の感触を、どう言ったらいいのか(映画の内側とはこうしてみると不用意な表現には違いない)。


 眼を奪われがちなこの映画のエディット性からがまんして離れて、音声に思いを向けてみたい。おばちゃまの屋敷へ向かうオシャレが、列車内で女友達と語り合う。おばちゃまと、自分の母の、昔のことに話が及ぶと、「HOUSE ハウス」という映画の画面はいきなり戦時中を模した記録映画を始めてしまう。この場面の衝撃性についてはすでにたくさんのことが言われ、積まれてきたのだろうと、なにもこの映画についての言説を知らない私でも思う*2。ただ、その衝撃性を基底で支えるのは、映像と音声との間の構造的なもの以上に、オシャレたちのおしゃべりのトーンの変わらなさなのではないだろうか。トーンが変わらないままの声。それが、シーンからシーンへ出入りするところに私は感謝したくなる。

*1:http://kyollect.hatenablog.com/entry/2018/05/27/210410

*2:実情には反する言い方であるけれど、「映画のなかの役者たちが次の瞬間、自分のいた映像空間に替わりに流れているステータス不明な映像について脇からコメンタリーを始める」……という事態に驚くというより、端的に、鑑賞者の私が観ているのと同じ映像に向かって、カメラの外の役者たちが「これ」という指呼詞を使えることが一挙に可能になることに、胸打たれる。