「ザ・マスター」(2012年)

 カルト組織にとって最もあってはならないこととは「リーダーが転向してしまう」ことに違いない。それに較べれば組織が滅ぶのも繁栄するのも商売のなりゆきにすぎない。もしカルトのリーダーが「ほかに大事なひと」を見つけてしまったら、そうなったなら、メンバーにはどうしようもないではないか。


 百合として観るというようなささやかな能動性を行使するまでもなく、私にはこれは主従ものの百合映画でしかなくって、まっすぐな王様のドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)は駆け落ちしたくてたまらない衝動を必死になだめすかしているのに、嵐が丘ヒースクリフの墓の上で今さっきまでファックしていたようなフレディ(ホアキン・フェニックス)は平然とドッドの心情をもみくちゃになじってみせます。だだっぴろい荒野に来て、バイクでかけっこ競争を提案するドッドの顔は、初めて自転車に乗って坂道をくだるたのしみを知ったお嬢様以外のなにでもないです。ほんとうに。

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(「ザ・マスター」、(C)MMXII by Western Film Company LLC)

 カルトの擬似理論に裏打ちされた擬似カウンセリングの擬似度がフレディに対して深刻化すると、動物に育てられた少女にいちから言葉やマナーを教育するような理不尽度と、ゆがんだ達成感がドラマの上で進捗の二曲線を示す。しかし、かえってますますドッドの側が感化されていることもメンバーの眼には隠せなくなってくる(庭先で転げまわるふたり)。この映画でのホアキンの笑顔のつくりかたは基本的に間欠的だ。印象深いところでは、カルト内の言語運用への失笑として(=プッと噴き出す)あらわれるものであるけれど、そうでない場面においても彼の笑顔は「つい」とか「思い出したように」という情感のバリアントを伴う。結局、笑いの持続性というものがホアキンの顔面上で約束されないので、次の瞬間にはまた険しい表情に戻ることを鑑賞者は教育されていく。「そろそろ笑うだろう」「ここで笑うかも知れない」と私があいまいにフレディ/ホアキンの顔面/画面の上に次の瞬間をえがき始めてしまうそのときに、彼は突然会話=顔面を打ち切って激昂する。誰がここでまばたきをしたのかは明らかだろう。