「ザ・デクライン」(1981年)、「ザ・メタルイヤーズ」(1988年)、「ザ・デクラインⅢ」(1998年)

 LAのパンクとヘヴィメタル(まあ、ほぼヘアメタルです)を追ったドキュメンタリー。地区をLAと区切ってさえジャンルを総体的にまとめた記録映画とかではまったくないので、出演バンドやコミュニティーの選択、偏りが激しいのはしかたない。netflixに三部作全部上がってるので私はそっちで観た。


 監督のペネロープ・スフィーリスのインタビュー。

www.hmv.co.jp


 「ザ・メタルイヤーズ」は「女とヤリたい」「女とセックスしたい」「ロックスターになりたい」以外のコメントを拾うほうがむつかしい。そりゃバンド活動の苦労だ将来の話だ、いろいろ言ってはいるけどさ、こんなコメントまともに拾ってどうなるというの……というようなもんなので。それ以外にもオジー・オズボーンが無邪気にエイズジョーク(セックスしたあと「あんたは終わりよ」とエイズ患者の女性に言われる……って例のやつです)を口にしてるとことか、うわあ……の一言だけれど。「ザ・デクライン」ではパンクスのほうも、「アバズレ女とヤルのが好きだ」とか「女を殴ったことがある。女は好きじゃない」とか女性インタビュアーの前で言いだすのがいるので、べつにマシとも言えない。
 今から振り返るとヘアメタルの一部の思想の核は、「メイクやヘアスタイルや衣装を女に貪欲に学びながら、男であることは絶対にやめない、男であることの快楽だけは死んでも手放さない」というところじゃないかなあ……とも思う訳で、とくにFaster Pussycatのポニーテールにしたひととか当時は腐人気高かったように想像できて(あの「バンドメンバーをかわいく描いた似顔絵文化」……!)、そういうのも合わせると、いろいろ。

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(「ザ・メタルイヤーズ」、(C) 1988 IRS World Media and Spheeris Films Inc.)


 パンクvsメタルとか、パンクロックとヘヴィメタルを絶対的な血統の違いのように区別できるといまだに信じているひとなんてほとんど消滅した筈だけれど、「どっちもロックンロールじゃないか」とさらに上階のカテゴリーに訴えてそれぞれの固有のジャンル史を無視するのも同じくらい悪い。そして、現代の反省的なパンクスや内省的なメタラーのどちらにとっても等しく見たくない、ふれたくない、できれば切断処理して済ませたいものこそ、この三部作に投げ出されてある人間たちのライフスタイル/ジャンル史ではないかと思う。
 悲惨なのはやはり、「とても受け入れられない、最悪な人間のやってる音楽がかっこいい」(……)というどうしようもない事実で、私自身このことについて、今もはっきりとした答えや態度をだせないでいる。ネオナチシンパのパンクスについては「ザ・デクラインⅢ」でもちょこちょこでてくる(数年前にThe Oppressedが来日中止になった原因でしたね。http://masterlow.net/?p=1911)。メタルでも同じようなもので、たとえばGestapo 666程度のバンドであれば「NSBMのくせにわりといい曲かいてるじゃん、で?」と足蹴にすることもできる。同意不可能な思想を裏切ってもいいと思わせるほどの審美性すら調達できないグループであれば、ひとは思想の顔を安心して立ててやることもできる。つまり手を汚さず、きれいな顔もしていられる。しかしもっとひどい、手痛い、もっと「きつい」ケースが山のようにある……。気に入った音楽をプレイしているひとびとが「右へ倣え的な体育会系のドレスコード」(Felix Von Havoc)でマッチョに暴れる人間だったときどうするか、という水準ではもうない訳だ。単に「嫌いな人間がすばらしい曲をかく」という水準ではもうない訳だ(この事態は、むしろ私も望んでさえいる)。


 「やってる音楽がどれほどよくても思想はクソ」と簡単に言って聴かないでいられるなら、幸いだ。あるいは思想と音楽とを明快に分けてこっちは批判してこっちは愛好する、とさっぱり済ませられるならそれもいいだろう(「RATMの歌詞は理解できないけど曲はかっこいいだろ?」と言って自分の持ち歌にしていたフレッド・ダーストなど清々しいし、誰も彼ひとりを馬鹿にできないと思う)。でも私にはそう簡単に言えない。そういうときに自分がどんな態度をとれるのかを思えば、とても他人を責めていられない。








(「ザ・デクラインⅢ」、(C)1998 Spheeris Film Inc.)

 結局やってることは同じじゃん、というのも多い。反レイシストにしろ反マチズモにしろ批判対象と瓜ふたつになってしまうのもよくあることだし、信念的には極右のアーティストが解放運動や革命に力添えする前衛的表現を生み出す、または逆に……という転倒現象も起こるし(アンドレ・ブルトン「今日の芸術の政治的位置」)、簡単にはいかない。
 「見ろ、この残虐さを」と言おうとして戦争の被害者の死体写真をリアルに提示する。すると、それは必ずリアルな死体趣味に回収される。よくあるし、よくあってきた歴史の筈ではある。DischargeやCarcassのメンバーがたとえどれほど人間の残虐性批判、反戦の意味を込めてあったとしても、その死体コラージュや遺体写真を使ったアートワークは趣味化されて伝わるし、現にそうなってしまっているだろう。DischargeもCarcassもやっている音楽のバイオレンスさは、死体を取り扱ったアートワークに対して当初はアイロニーと批判性を与えていた筈だけれど、音と思想は単に様式上で短絡されて「死体はかっこいい」「野蛮な音には死体がなくては」という言い分にお墨つきを与えることになってもいる。しかも私にとって問題なのは、そういった趣味性は必ずしも悪いことばかりでさえなかった……とどうしようもなく思ってしまうところに自分がいるということだ。