「スキャナーズ」(1981年)

 ヒューム的な映像上の問題がある。眼を見開いた人物Aがバストアップで映っている。すると、次のカットで映る人物Bの顔色が変わっていく。人物Aは顔の肉を震わせ、あるいは悩ましげに、あるいは歯を食いしばる。人物Bはそれに呼応するように顔を固め、あるいは痙攣し始め、あるいは具体的な次のアクションに向かう。
 ここでAとB(またはAとB、C、D……)の顔のカットの連接を、AがBの直接の原因だとこちらに解釈できるのは、私の場合これが超能力合戦の映画だという前情報をつかんでいるからだ。しかし予備知識なしで観ても、Aがサイコキネシス(この作品の用語では「スキャン」)によってBに異変をもたらしている、ということは大抵すぐ気づかれる筈だ。それは、この映画以前にすでに「こういうシーン」をみんなよく知っている筈だから……でもある。ジャンルの経験知でもあり、技法の、表現の経験知でもある。
 「仮にわれわれが突然この世に連れ込まれたとしても、われわれは玉突きのボールが他のボールに衝撃によって運動を伝えるということを、最初から推測できただろう」(デイヴィッド・ヒューム『人間知性研究』)。言い換えると、「人物Aの顔が歪むと、なぜか人物Bの顔も歪みはじめる」という地点以前にとどまって観ることが、誰が原因で誰がその結果かを同定せずに観ることが、今ではむつかしいのに違いない。


 サイコキネシスが「通じる」ためには互いに見つめ合わなくてはいけない、という私の思い込みはどこからきたのだろう。この映画でのスキャンにはそんなルールなどない。車の後部座席からでも、四方に散らばった刺客たちに対しても、眼をつむっていてさえ、スキャンは通じる。そもそも最初のスキャンシーンでは目線さえ合っていなかった(カメロンが女性に思わず意識を向けてしまう冒頭の場面、女性は隣の友人に顔を向けて会話していた)。設定の上ではスキャンとは、自分の神経と相手の神経とを繋げることで、人間を意のままに操ったり働きかけたりできるという理論のもとにあった。たしかにそれでは、相手に集中しさえすればいいので、見つめ合う必要などない訳だ。
 思うに、スキャンの動作主, agentの顔が映るとき、被動主, patientも必ずその顔で応えるはめになってしまっているのが、見つめ合いというフィクションのここでは「原因」になっている。スキャンのキャラクター間での達成は、役者相互の顔を含めた上半身の力みの度合いに多くかかっている。合成映像や画面のエフェクトは使用されていないから、スキャンが伝わっていることを示すために、相手方も同じように顔の演技を共有させられることになっている。それを映像は連接的に編集して示す訳だけれど(劇伴の高まり、効果音、文脈、語りの途切れと再開などを含めつつ)、誤解と判っていながら言えば、カメラが交互に動作主と被動主とを映すだけでふたりが物語の上でも見つめ合っているように錯覚してしまう。
 この映画で、コンピューターに対してスキャンが仕掛けられるシーンがある(「人間の心だと思って……」)。その際、カメロンが頼るのは公衆電話だ。発想の類推性はきっとシンプルだろう。電線=神経系=電気=配線=ネットワーク=心=「スキャン」、等々。しかしこのとき、コンピューターにとっての「顔」……という気がかりとも言えない悩みが思いがけずこぼれ落ちる。スモークがたかれているのか、大地然として映るコンピューターの基板は暗く、もうひとつの容易に忘れがたい妊娠した女性のエピソードとともに、この映画のなかでほどかれえない思いの標となっている。