「わらの犬」(1971年)

 もちろん「意に沿わない発言に対してすぐ言い訳だと言うのをやめろ」という注意はもっともで、私自身、言い訳という表現はもうすっかり汚染されて使われて長い言葉だと思う。その上でしかし、見苦しく、また強行的にかいていくならば、言い訳というのはこうしてみるとなんだろうかと思う。言い訳らしい言い訳があり、言い訳と思われない言い訳がある。痛めつけてもいいと自分に思うのを許すための言い訳があり、問題を先送りにしていいと自分に許すための言い訳がある。しかしそういった誰にでもよく見え、よく判る言い訳のほかに、不可視の言い訳や、言い訳の身分からアガリをえた高い言い訳、かたちだけの言い訳、かたちにならない言い訳、等々、言い訳のバリアントがあってこの映画でそれはほとんど繁茂と感じる。
 酒場でスコッチを頼んだだけで失笑し、徒党を組んで自宅の屋根で騒ぎ、わざと車を追い越させて衝突事故を期待するようなゴロツキにも「いいとこ探し」をしてしまうデイヴィッド(ダスティン・ホフマン)にもし鑑賞者が苛立つとするなら──つまり「粗野で」「群れていて」「若い田舎の男たち」に対するデイヴィッドの委縮も怯えも思い測ることをサボッて、だ──その苛立ちは「言い訳してないで、さっさとやり返せ」という言い訳ですでに糊塗されてあるに違いない。少なくとも私はそうだ。楽しませてくれ、早くやれ、すっきりさせてくれ、どうした?ぼさっと画面に立ってないで……。そしてそんな十分正当化されてあるメジャーな報復情念が世間でふつうなんと呼ばれてあるものかは明らかだし、この映画のなかで強姦・輪姦されるエイミー(スーザン・ジョージ)の苦痛と恐怖の表情をエクスタシーと夢中で読みかえ、必死に「お前だって感じてるんだろ?」というメッセージをかきこもうとする強姦者たちの心情と、息せききった手の早さにおいてどれほど違いがあるものか知れない。一方でデイヴィッドの言い訳、そのいわば交通止め的推論主義(ロバート・ブランダム)がフォローされる訳でもない。彼の言い訳は当然すべて台詞になって発せられてはいない。しかし鑑賞者はデイヴィッドの言われない言い訳を画面かららくらくと汲むことができる。誰にでもよく見え、よく判る言い訳だからだ。「(彼らがやったという証拠はない。だから……)」「(彼らにもいいところはある。だから……)」というような文における「だから」とは、そのあとにべつの推論を予告するものではない。それの意味するところは、推論がそこまで来たら相手の顔を窺うとせよ、というデイヴィッド自身の「人好きのしない」からだの命運のことだ。劇は、このからだに積まれたマイナスの総計を、ラストの籠城戦で一気に返済するとされる。しかし、ほんとうだろうか。
 マフィア的な言語は平叙文を命令文として相手に聞かせる。○○しろ、○○せよと言うことなく、指示はパフォーマティヴな次元で伝わろうとする(「そう言えばあのあたりに中華レストランがあったな? あれはいい店だ、とても……」)。このタイプの平叙文=命令文は、文の発し手にも受け手にも免責の材料を与えうる(「おれはただこう言っただけだ。あいつが勝手にしたことだ」「ボスがああ言ったからやっただけで、おれだって望んでた訳じゃない」)。ところである人物にとってそこから命令遂行の免責を取り出しえる平叙文の機能を自然言語のみが担う必要はない。汗で濡れた相手の目配せ、ドアを乱暴に叩く音、気の乗らない態度、銃声……身振り、音声、風貌すべてが命令文=平叙文になりえる世界で、たとえばデイヴィッドの、あの土壇場のウィンクの無理やりさから誰か、なんらかの意義ある命令を拾いだすことができるだろうか。