「フェノミナ」(1984年)

 音楽の無神経さは散々言われてるようですし私が今更言うのは酷だなと思う。ヘヴィメタルがホラー映画にどれだけ片思いしていようと、ホラーはメタルなんて劇伴に必要としてないのがよく判ります。Iron Maidenがこれほど無残に流れる場所なんて観たくはなかったし、クラウディオ・シモネッティによりにもよってネオクラ(!?)をかかせてしまう時代の強迫観念にも驚かされる。Sunn O))) やNadjaがヘヴィメタルと呼ばれ、インダストリアルと民族音楽が入り交じり、ダークアンビエントブラックメタルが強く結束して久しい今の音楽的状況との隔たりはどうしてもぬぐえない。


 ジェニファーがフラウからオレンジ色の錠剤を渡されて、それを飲む(「熱を下げる効果があるの……」)。不審を感じつつもしっかり飲み終わったあと、洗面所の石鹸をふと手に取る。ウジが這いまわっている。はっと見回すと、壁にもウジがわいている。動揺するジェニファーが急にお腹をおさえて苦しみだす。彼女は先ほどの錠剤に原因を求める。あれは毒だ。そして嘔吐シーンが始まる訳だけれど……こうした場合、ふつうに予想されがちなのはウジを眼にしたことがきっかけで嘔吐する姿なのではないだろうか。しかし映像は、ウジを嘔吐の原因とはしないように見せている。もう少し言う。ウジに近づけさせられる女性というホラー映画の趣味性と、嘔吐させられる女性というホラー映画の趣味性との間に、ここでは因果論的断絶がある。あるいは断絶と言うにはささやかすぎるだろうか。ウジを見て、ウジによって吐くことと、腹痛をおぼえ、直前に飲み込んだ錠剤にその原因を求めながら吐くこととに、どれほど違いがあるのか……と。どっちにしろ少女が吐いてるシーンがあればそれでいい、と……。
 この映画で脚本上のフックとして美的に構成されている存在がいくつかある。夢遊病。悪い季節風。昆虫のテレパシー。人間と友愛を育むチンパンジー。それらひとつひとつにはとてもいいものがある。にもかかわらず、この作品ではどれもうまくいっていないように思う(草原を案内するように飛ぶハエについていくジェニファーはすきだ。普段私がそう望んでもかなわないのに、この映画でハエは眼で追えるほど親切に飛んでくれる……)。そういったなか、アメリカからスイスに転校してきたジェニファーという造型は、脳の「異常」を調べるための検査を拒み(「私は正常よ」)、フラウのもてなしを拒む。先にかいた洗面所でのシーンが、ウジという昆虫体系内でのクエスチョンマークに対する昆虫好きの少女のぎりぎりの気遣いであるのを超え、今は造型からジャンルに贈られたぎりぎりの関係拒否のように映る。「わたしはウジを見て吐いてはいない。あの錠剤が毒だったから、あの女を信じないから、わたしは吐く」。