「ムーンライズ・キングダム」(2012年)、「マップ・トゥ・ザ・スターズ」(2014年)

 うるさいな、と思ってしまう。べつに深い含意はない。しかしたしかに自分の最下層にはある感受性に尋ねるとそう言われる。「ムーンライズ・キングダム」という映画に対して、直観的に絵がうるさい。最初10分ほど感激し続けていたことが以後、重荷として帰ってくる。それは「人物AとBを野原の両端において出会いの場面とした上で正面奥にはきっちり建物を確保する」とか、「イエローで統一された横長のセットに沿い、カメラは奥を目指すことはなんとしても拒否するように水平にすべり続ける」とか、「カメラの切り返しに台詞は対句法の構えをとる」とか、そんなレベルでの話だ。まともな評価語ではないと判っている。それでも構図が、テキストが、それらの「気配り」がいちいち私にはうるさくって、観ていてめんどくさくなってくる。才気走っているというなら、その才気がうるさいというか……。同時に痛感する、そのうるささはほんとうは反転して自分に働きかけてもいたこと、端的に言えば、自分はこの映画に夢中になっていられた筈なのに。
 清潔な手についての行動であり(「あの子はうたつていない」……ですが。しかし中井英夫の情念もこの映画では生きえないだろう)、ジャレッド・ギルマンというひとの造型には最後までたじろがせられるし、カーラ・ヘイワードの傾いた容貌に魅力は尽きなく、ただ、嘘のようにすれ違ってしまう作品がどうしてもあるのだと教えられる。出会い直したい。でもこうした感想を抱いてしまったことは取り消せない。


 ふたつの映画作品をひとつの日記に背負い込むのはここでは単に続けて観たことによるけど(「ムーンライズ・キングダム」を観たのは一昨日)、「マップ・トゥ・ザ・スターズ」は観ていてまず、慰められたと思う。こちらのほうがよいとかではない。そもそも対比して扱える作品ではぜんぜんない筈だし、まあ、とはいえ無関係のものは単に続けて観るだけでひとはふたつの作品に共通項を見い出そうとするだろうしそうした生理も侮れないとは思うけどそれは関係ない話。こうした映画がすきだ、こうした映画にどうしても入れ込みたいものがある、などと口を開く前に、こうした映画があってくれることにまず慰められると言いたくなる。
 陳腐なことは十分起きる。二流。三流。嫉妬、偉大な母、若く美しかった母、それに比べて。「それに比べて」という名の強姦。ゴシップ好みの家庭の秘密もまたシナリオに骨の髄まで組み込まれてある。ただし当事者にとってはどれも陳腐ではない訳だ(それこそが陳腐という言葉の定義なのには違いない)。しょうもないセラピストが快調に仕事をもらい、薬や銃で起こりそうなトラブルがそのまま下る。そして、そういったことが映画のあるところですべて、ただに遠のき始める。「解決する」「立ち向かう」といった法の根差す土地から、ただ人物が遠のいていく。その遠のきへの思いひとつにこの映画は私に賭けられている。
 違う角度から言えば、この映画において、また私自身同意するものとしての「自由」(ポール・エリュアール)とは、「自分の血筋の物語を繰り返す列からはぐれること」と同じだけの強度で、「自分の血筋の物語を繰り返してもかまわない列の手を握って離さないこと」の重力が、自分以外の重力に対して必死でとりうる態度のことだろう。


 場面から取り上げる。アガサと父の再会シーン。父はアガサを必死で葬った過去そのもの、今や見るもうんざりするゴミだと思っている筈だ。とすれば、別れを言い渡すこの場面が不可解に見えてくる。この男は、いったいここでどういう造型なのか。



(「マップ・トゥ・ザ・スターズ」、(C)2014 Starmaps Productions Inc./Integral Film GmbH

 ぎゅっとアガサを抱擁し、その額に口づけするしぐさに親密さは紛れないかに見える。しかしその合間に発せられる父のパロールの質と言えば、「生けるゴミ」でも相手取っているようだ。そんなゴミクズ言語を用いる男と抱擁する男とがひとつの場面に共存してある。なにか砕けているものがある。これをたとえば、「厄介者扱いしてはいるが、娘なのだから一応儀礼として抱きしめてみせたのだ……」とか、「DVの邪悪なパロディというか……?」「でもこの父親も、愛情と害意との間で……」というような説明を与える視点からは、何度でも離れておきたい。この場面に宿っているものはもっと違うものだと思う。自分の属性を映画のうちへ健忘症的に取り落しながら、画面に収まることはやめない居座り型のコナトゥス、でもきっとないにしろ。



 アガサ役のミア・ワシコウスカの身振りには最後まで威圧された、その場にいながら、その場をさまよい続けるありかた……とでもいうのか、忘れられない。