「この世界の片隅に」(2016年)

 いま観ている途中です。時間的には前半が過ぎようとしているところです。見えたものについてだけかきます。


 首をかしげて困り眉で照れ笑いするキャラクターの絵がちょくちょくでてくるようです。キャラクターといま言いましたが、実際はほとんどすずさんです。あの表情、あの、「あれれ」という感じこそ、少なくとも映画の前半の基底を流れる情感を私に向かって織り成しもし、作品の肌理を教えてくれもします。見えたものについてだけ言いたいので、こういうところから私は始める必要がありました。



(「この世界の片隅に」、(C)こうの史代双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会)

 さかのぼればふと浮世絵でずいぶん見もしたようなポーズみたいだし、いろいろな漫画の文法も浮かんだりします。「照れ笑い」というのも本来は正しくない筈です。場面によって「しまった……!」「よわったなあ」といろいろな経緯が寄せて停まるところです。ただまあ……照れ笑い。そう言えば言えてもしまうけれど、の「けれど」の箇所に、くすっ、の残照をはさみながら。
 仮にこの顔を「あれれ笑い」と呼んでみたいです。最初にかいたように、この「あれれ笑い」はちょくちょくでてくるようです。すると気づくのですが、この「あれれ」をするとき、すずさんはだいたい首をねじっています。「あれれ笑い」に付随する首のねじれは、たとえば作品世界ですずさんの前にいる相手からの存在風圧によるものでもあります。また、すずさん自身の内省風圧によるものでもある筈ですが、それらと同時に、なにより映画を観ている鑑賞者にその「あれれ」ぶりがよく見えるように、という作品行為そのものからの読まれえぬ思考風圧をもまとっていると思います。べつに大きな話ではなくって、キャラクターの顔の絵ひとつさえ、作品に現にそのようにかかれたことの原因というのは単一な要素に求められる筈もない、というだけです。


 このようにすずたちを通して「あれれ」を教えられながら観ていくとき、次の場面の絵──憲兵に怒鳴り込まれた直後の──は映画のうちでどう映るだろうか。

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 すず、嫁ぎ先の義母、義姉の3人はみな顔をあちらへ向けて立っている。しかしそれぞれの特徴的な首のねじれはまさに「あれれ」してはいないだろうか。当事者みずからそれを助勢するかのような義母と義姉の思い切った打ち明けさえ、この直後のシーンでは明らかになるだろう。必死にこらえてたのは、そうじゃなくて、ほんとは逆で……と。
 しかし、無理だろう。この場面のこの3人の絵は、実は、裏に回り込んで見られた「あれれ笑い」なのだ、とかりそめにも思うことは断念するほかない。とてもそう思うことなどできないし、誰にもそうは見ええない筈だ。「窺えない顔にはどんな表情をあてがっても許容されるだろう」というような衰弱した大喜利の精神はここで脚を切られる。端的に、そしてそもそも、「あれれ笑い」に対してはその裏に回り込むことなどできはしないと思うからだ。議論を忘れてもっと放り投げるように言うと、「あれれ笑い」を後ろから見うる視点など鑑賞者の側にはない、と思うからだ。その回り込めなさの強い意味、やりきれない愁眉を、けして窺えないもうひとつの顔のゆくえを介して、私も、ひとも、ここで握らされているのではないか。