ジェリーという名を二度とは言えない

 散文において、一文ごとに文末を変えたくなる意識がある。つまり「~だ。」でひとつの文を終えたなら次の文は「~である。」「~と思う。」「~だろう。」等々のバリアントを駆使すべきであり、「~だ。」に続けて「~だ。」形で終えるのは芸がない……ともしも思うのなら、それは端的に「同じことを二度繰り返せない」という散文上での抑圧だという指摘がある。ここでは、文末を変えずにはかいていられないことがむしろ散文の不自由なのだと言ってもいい。
 「悪魔のいけにえ」(1974年)の日本語字幕を追っていくとき、ハーデスティ家の兄と妹が消えたジェリーを捜して闇の向こうへ呼びかけるシーンがある。台詞は「ジェリー!」と数回連呼されるだけだけれど、字幕の上では《ジェリー》という名のほかに《どこなの?》という文字もでてくる。おそらく翻訳上の意識の問題もかかわっているのだと思う。「ジェリー」という呼びかけははっきり耳で聞きとれる台詞であって、それをわざわざ字幕に《ジェリー》と起こすことだけでも、なにか、後ろめたさを含んだ野暮ったさがあるのかも知れない(といってもこれは私の感じかた、たとえば聴覚障害を今のところ持っていない者の感じかただ)。その上、「ジェリー」は連呼される。一方で、字幕は逐一キャラクターの台詞に生起しようとする。しかし台詞:「ジェリー」に字幕翻訳:《ジェリー》と一度対応してしまったあとで、もう一度同じ翻訳対応をとることには、散文の意識のためらいがあるだろう。
 台詞には直接対応しない《どこなの?》というテキストは、ジェリーを捜し続けているキャラクターの内心に由来するものだ。この字幕上にのみ現れる声とは、「同じことを二度繰り返せない」心配性な散文が翻訳者の心に浮かばせたもうひとつの捜索する声だったのではないだろうか。