そのありようにおいて、「道徳」と「倫理」とはむしろ敵対関係にあるものだといつからか理解するようになった。結果的に両者が一致する日があるとしても、道徳と違って、倫理は次の日まで自分が生き残るとは考えない。道徳と違って、倫理は紙にかいて誰かに復唱させることもできない。倫理が言語化を拒むゆえではなく、瞬間をおいては生き延びられない「事件」の水準にあるために。また道徳と違って、倫理はどの瞬間であっても自分自身をまず問い返すことを条件として出現する筈だから、同一性や無謬性の保証などはもとよりない。次の瞬間には自分が根底から間違っていたと思い知るはめになるかも知れないし、そればかりか、「それでも、今この瞬間だけは」というとっておきの「それでも」を青ざめずに言う方法をいまだに倫理は知らない。そして倫理は道徳とは違う筈だから、他人の目撃を自分の手にはめることはできない。だから『それは私がしたことなのか 行為の哲学入門』(古田徹也)の最後、ふれられていた考えは私の意に沿うものでもあった。そうは言っても人間の疲れやすさは、どの瞬間をも倫理的にのみ生きるなどというスタミナを困難にさせるだろう。なになにの零度だけでひとは生きられるものではなく……云々………それにしてもミモザミモザ……匂い………………。

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 繰り返しておくと「地雷」という感性を私は採らない。それを踏まえた上であらためて言うならば、この日記の最後のほうでかかれている「地雷」と「信頼」とを、私にとっての「道徳」と「倫理」とにかきかえてもいい。すると倫理の一撃をくぐったあとの自分とは、それまでの自分の側から見ると悲惨な裏切りに近づく筈でもある。ほかの者からは清算なき心変わりのようにも見える筈でもある。「お前がそれを受け入れられる筈がない、お前はそんなタイプではない」「どうかしてる、そんなものに転ぶだなんて」「納得のいく弁明を聞かせて欲しいものだな」(……)。なにを受け入れなにを拒絶するのかという価値判断の基準ごと問い直させ、そもそも価値判断していた自分ごと一変させるものがつまり倫理行為であるからには、「憎んでいたものに転んでしまったあと」という災厄の日時、それにどういう態度をつけるか苦しむ時間がやってくる。他人には肩代わりできない時間が。私が上の日記で「信頼」と一気にかきつけている時間、先立ちの時間とともに……そうだと思う。