「大杉栄、山口百恵、私の誕生日今日火の匂ひして」(尾崎まゆみ)

 頻繁に通る道で路上に面したところに緑色のコンテナのような機材が設置されていて、それには「大変×××」という白い印刷文字が小さく左下にかかれてある。あるとき気づいたのはこの「大変」とは「大宮変電所」の略称だということだけど、そのあとの×××という数字はそのまま私の誕生月日であって、これらがひとまとまりに「大変×××」という警告語となって現れているコンテナの局所からはいつも急かされているような声を知らず受け取っていたのかも知れない。しかし:そして:こうしたことや、また、絵を描いたあと黒いインクをくぐらせたペンを洗いに台所に行って、流しにべったりと落ちたインクがちょうど飛翔する鳥のかたちでしばらく残存したのを見ておぼえた感慨や、といったこと、要するに「日々の発見」を私は短歌にはかかない、とそれなりに強く自分自身に念じてきた。それも、この「発見」がほかの歌人のもとでは「かなりいい」歌、「美しい」歌にされてもしまえる可能性を暗く思い浮かべつつ、はっきりと「でも私は《これ》を短歌にしない」と頭に文字として浮かべつつ念じてきた訳だけれど、にもかかわらず歌をかきつける場所ではそういったことは忘れてきたし、忘れている筈でもある。「いや、必ずしも明晰な意識でないところで、自分の意識にのぼらないところで自分のからだが警告を記憶しているんだ」というほかの場所では正当な言い分も、ここではやはり口先ではいくらでも言えるものという思いがする。忘れが不履行と同じでないにせよ……それ以上のことはまだ、うまく言えないまでも。
 だからもしもひとがなにかを短歌にかかない、かくまい、とするなら、ほんとうにそうなのなら、それは、日々それなりに強く念じているだけではだめだろうという……かかなさを明らかにするためには、「私は《これ》を短歌にしない」と日々:いつも:それなりに強く念じている「以上のもの」が絶対に要るだろう。