コモンと言葉(3)──それは窓ではなく、板でもなく

 Anthony Rageul/Tony(2009年)の「インタラクティブバンドデシネ」作品(http://www.anthonyrageul.net/les-limbes-2/)を見るとき、まず観者に伝わるのは画面の一望性に対する拒否の目配せではある。どうやら「辺獄」の世界を扱っているらしいこのイラストレーションは、絵の全体を限界づける外枠と、その内側で自由に観者が動かせるみっつの小さなウィンドウによって提示されてある。実際にTonyのページに行き、眺めてみれば判るように、みっつのウィンドウの外は空白化されている。このウィンドウ部分をドラッグすることがいわゆる最小限の「プレイ」行為にあたるかどうかは措くにしても、観者はウィンドウ=可視領域をぐりぐりと動かしながら絶えず空白化されていく領域を想像的に穴埋めするだろう。このウィンドウを作品の隅々まで動かしたところで、全体の絵が一挙に観者の前に提供されることはない。そのような意味でこの作品は一望性への拒否を担っている筈だけれども、この拒否はまた誘惑と不即不離の関係にもある。絵の全体を一挙に見たいという欲望が充足されることはいつまでもないがゆえに、かえってますます想像的な穴埋めへの欲望をかきたてる……と言ってしまえばしかし、古典的な欲望のケースを単に追認してしまうだけかも知れない。たとえばゲラシム・ルカの、再構成による統一を拒むべくあらかじめピースを欠落させたコラージュのありかたなどを思えば、一望性を表では拒否しつつ時間さえかければ全体の絵の再構成はともかくも可能だというところは、よい悪いでなしに「後退的」なつくりなのかも判らない。
 ここで小さく閃かせておきたいのは、Tony作品でウィンドウは位置によってそのサイズを変えるという設計だ。左上を出発点と見た場合、画面の下に行くほど押し潰されるように縮み、また地上から右側へ動かせば細く縦長になっていく。そこで眺められる図とあわせたとき観者に与えられる感触に統一性はない筈だけれど、ウィンドウに授けられたこのささやかな特質──伸び縮みするサイズ──なしではこの作品もそれなりに機知のある趣向を述べたものに終わっていただろうと私には思われる。


 ビデオゲームにとってのウィンドウというとき、とても一息で語られうるものではない射程をもっていることは明らかであるにせよ、パソコンでプレイする場合はまずゲーム作品が立ち上がるための画面枠としてのウィンドウがある。その多くは全画面かウィンドウかをオプションで選べるようになっていたりするけれど、全画面にまで広がったゲーム画面をすらウィンドウと呼ぶのには強い抵抗感がある。やはりパソコン上のある画面領域に対してウィンドウと言う場合、それはすでに基底として立ち現われている「地」の画面の上に新しく開いた画面であると視覚的に直感できること、あるいは「この画面」の外にべつの「この画面」がつねに見えていることを条件とする認識があるからかも知れない。また、ほぼ全画面同然であるけれどタスクバーさえ見えていれば、とか、ウィンドウ右上の閉じるボタン関連つきであれば、といった要素も、ひとにこれはウィンドウだと思わせるものになっているだろう(パソコンにおけるウィンドウの厳しい定義にここでは踏み入らない)。
 ゲーム画面自体を限界づけるウィンドウがそのようにあるとすれば、ウィンドウにはさらに、ゲーム内で開かれるメッセージウィンドウやインベントリウィンドウといった種類のものがある。個人的な記憶では「シルバー事件」(グラスホッパー・マニファクチュア、1999年)や「Undertale」(Toby Fox、2015年)、また無数のビデオゲームのなかでこの種類のウィンドウに豊かな拡張と冒険が繰り広げられてきた筈だった*1


 ゲーム内で開かれるウィンドウから離れて、ここでゲーム画面としてのウィンドウに気持ちを戻したい。パソコンでビデオゲームを開始することはそのまま、ゲーム画面そのものをひとつのウィンドウとみなす視点の採用と連れ立ってあると思える。そうした際に、何人かの作家はウィンドウの詩学というべきものを手持ちのプログラムによって調達してみせてくれたようだ。
 ここで思い起こせるのは、「windowframe」*2、「BREAK」*3、「Recluse」*4といったフリーゲームの数々で、いずれもプラットフォーマーというジャンルに根差したところからゲーム画面という扉を冒険的に:瞬発的に:かたどろうとして見えた。

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(「windowframe」)


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(「BREAK」)


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(「Recluse」)


 「BREAK」と「Recluse」は画面の提示のしかたで近い位置にあるようだ。これらの作品でウィンドウがどうすればこう動くことが可能になるんだろうとか、どのようなプログラムや構成で動いているのかはまったく知らない訳だけれども、共通してあると言えそうなのはウィンドウの拡張が冒険の進行に見合っていくということ、その時点で見えているウィンドウの外にも画面が続いていることへの信憑、そしてこういったことを一画面で展開するための必然としてキャラクターが極小サイズであるということ*5。「Hero Core」*6のようなローファイな絵づくりを「VVVVVV」*7の即死アクションに落とし込んだような「BREAK」の無機質さと、ナード青年とナメクジ(というかお話を読むにカタツムリなのだろう)を合成させたようなキャラクターがあまり悲壮でもなさそうにゆるく出口を目指す「Recluse」ではたしかに絵の印象は大きく違うにせよ。まるで削るほどに広がっていく奇妙なスクラッチくじのように、ゲーム画面はだんだんとプレイヤーのパソコン画面を占領していく。こうしたゲームでは、いま開いてあるゲーム画面の枠のすぐそばも、いつでも新しいゲーム領域になりうるのだと思わせ、ふしぎな磁場が生じてくる。まだ「ここ」はゲーム画面にはなってないのに、自分のパソコンの壁紙部分にもすでに地図が引かれているという感触。
 上の3作品のなかで「windowframe」については、冒頭のTony作品に顕著な画面の一望性に対する拒否と誘惑を最も共有しているところがある。プレイヤーキャラクターはゲーム開始早々に「杭」を手に入れることになる。待ち受けるボスキャラとしての吸血鬼退治にこれは使うものでありつつ、この杭を画面内から発射することで、ゲーム画面としてのウィンドウをも固定することができる。つまりプレイヤーは自分の操作するゲーム画面の広さや見え方をある程度調節することができる訳だ。このアイデアがパズラーとしてのたのしみにも花を添えている訳だけれど、各ステージは入り組んでいてどうしても全体のマップを一望することができないレベルデザインになってある。
 「windowframe」はいくつかバージョンがでているけれど、私のプレイしたバージョンでは途中から「基底」となるゲーム画面のウィンドウが開かれる。プレイヤーには不可視のままにしかし、まずは全体のマップをあらかじめかきこんであると思われる大きなゲーム画面が開く。その上に開いた小さなウィンドウが、プレイヤーキャラクターのいわば活動領域を保障する。プレイヤーキャラクターの活動領域と、ゲーム画面じたいが、少なくとも眼に見えるかたちで同期している「BREAK」「Recluse」とはこの点でウィンドウに対するニュアンスが違うと言えるだろうか。しかしまた、広がるばかりで画面が縮まることだけは一向にないそのふたつの作品に対し、「windowframe」はプレイヤーキャラクターにぴったりと画面の端を引き寄せることができる。杭を撃ちこみ、身も蓋もなくウィンドウのフレームをドラッグすることで。そしてこのフレームは十分に「実体的」なものだろう。プレイヤーキャラクターがそこを壁蹴りしてどんどん上にのぼっていけるから、というこれもまた身も蓋もない営為によって。


 ビデオゲームのウィンドウを「窓」と端的にとらえてしまうなら、またしても絵画の古い課題にゆり戻されることは判っている。そしてそれを真面目に追うことの誠実さも……判りつつ、ここで今日思いはじめてきたことはなんだったろうか。ここでいくつか取り上げてみたゲーム、「BREAK」「Recluse」「windowframe」といった作品から徴候的に感じ取られたことはなんだったろうか。それはおそらくゲーム画面というウィンドウをもし「壁紙」の上に開いた「窓」だと素朴にみなしてしまうなら、ありえざるような運動の担い手としてのウィンドウだろう。「フレームの内と外の境界画定をかきみだす」などという大げさな身振りなしに、ウィンドウはただ伸び縮みする。それによってプレイヤーの眼にいま見えているウィンドウをはみだしたところに、まだ見えぬゲーム領域をマークしてみせるだろう。ビデオゲームの住人たちの活動領域としてのウィンドウに、そんな優しいイリュージョンが手を貸している。壁を這いまわるそれは窓ではなく、といって星がかきこまれた壁のひとつとしての平板な板でもない。こうした感触のひとぬぐいを今はまだ手放さないようにしておこう、「まだ誰もウィンドウの打ち明けばなしなど聞いたためしがないのだから」。

*1:その冒険の大半を私自身は知らずにいて、必然的にこれからも知りえないという挫折の悲しい明るさを意識しつつこれをかいている。

*2:daniel linssen、2016年。https://managore.itch.io/windowframe

*3:Someoneman、2014年。https://gamejolt.com/games/break/41132

*4:Pedro Camara、2012年。http://ludumdare.com/compo/ludum-dare-23/?action=preview&uid=11981

*5:この点でウィンドウには手をくわえることなく、プレイヤーキャラクターとその周辺のマップのサイズ感の変化に的を絞った「Small Worlds」(DavidShute、2009年。https://armorgames.com/play/4850/small-worlds)のような作品と比べてみることもできるだろう。スクラッチくじ性とでもいうのだろうか。

*6:Remar Games、2010年。http://www.remar.se/daniel/herocore.php

*7:Terry Cavanagh、2010年。https://store.steampowered.com/app/70300/VVVVVV/?l=japanese