パリピ嫌悪がずいぶんカジュアルに言われるようになってしまったようだ。「パリピ死ね、パリピ滅べ」と言うのはひとりひとりの勝手だけれど(そのわりにパリピ嫌い同士でつるむことには抵抗がないようだけれど?)、パリピ嫌いを口ずさんでおいたその同じ身で赤の他人と騒ぎ、笑顔で音楽に合わせて踊りさえするのだとすれば、どうだろう。いや、お前も同じことしてるよ、と見えてしまうのだとすればどうだろうか。酷な言い方をとれば、自分がたのしさを表現しようとすると結局嫌いなパリピ以外に倣うモデルがない、パリピの身振りをかっさらう以外にたのしさの表現方法を知らないということではないのか。Juvenile, you emulate what you hate(Anthrax "Keep It In The Family")。
 ふざけんな、パリピとこっちは全然違う、と切断処理を駆使することもどこまでも自由ではある。先入観丸出しでパリピの「悪徳」を数え上げることで各々の身振りの正当性さえそのつど支給される筈でもある。しかしもしも音楽に合わせて踊ることの涙ぐむようなたのしさを一度でも知ってしまったのなら、ふしぎなほど素直なきもちで赤の他人とすきなものについてのおしゃべりをして笑顔になってしまう空間の喜びを一度でも知ってしまったのなら、そういった自分の姿を正面から受け入れた時間をたしかに一度はもったのならば、もう単純にパリピとひとまとめに非難することはむつかしくなるものではないのか。非難するな、ということではない。非難するのがむつかしくならないか?と問いかけているだけだ。……私自身の基準はもっと広くて、たとえ「ひとりカラオケ」でも「ひとりゲーセン」でも「ひとり即売会参加」でも、街の外にでて騒がしさのなかでたのしいことをするたのしさを知っているならすでに圏内だとさえ思う。そんなたのしさをしっかりと知ってしまったあとで、あらためて「パリピ死ね、パリピ滅べ」と屈託なく言うにはそれなりに分厚い顔の皮を必要とするのではないのか。